蓬這い
大塚の自宅から三業通を抜けて駅前に出た。この近辺でも晴れやかな部類に入るこの界隈に、以前、金の延べ棒が5000万円相当発見されたというのを思い出す。あれは確か、発見者が浮浪者だ
ったという話だが、すぐ近くに巣鴨警察署があったので、重かったであろうその拾得物も、善良な発見者にはさぞや届けやすかった事だろう。6ヶ月を待たずに礼の一部をもらったのか、それとも全額を受け取る幸運に恵まれたのかは知らない。
かつては山手線の駅前とは思えないほど、木造モルタル作りの寂れたゲームセンターや閉店してかなり経つであろう酒屋等が点在していたこの場所も、数年前の再開発で真新しいビルが建ち、少しずつ様相を変えている。人通りも幾分、騒がしくなっているようだった。雑踏から付かず離れず歩き、南口のあたりの、都電の停留所まで来てのち、しばらくはつっ立っていた。ズボンの右ポケットから煙草を取り出して、ライターも取り出すと火を点けた。二、三回程軽くふかした後、深々と吸い込んで口を呆けるように開けて吐き出し、その形状を気を遠くしながら観察する。これを数回繰り返して、ようやく待ち人が来た。
彼は右手を自身の頭の方まで上げながら会釈してきた。先に見つけられた格好となった。上げた右手を少しずつ緩めて、ぶらりと降ろされるまでの時間には、立ち話が出来るくらいの距離にまでお互いが近づいていた。左手には火の点いた煙草を持っていた。改めて待ち人の顔を観察すると、向こうも同じ事をしているみたいに、こちらを凝視している様子だった。働きかけているそれは、ほんの少しではあったが、しかし早い動きをしている。何かこう、目線を他に動かすのが躊躇われて、しばらく観察し続けていた。相手の目線は、キャメラを持ち慣れない者が焦点を捉えられないかのようにぶれ続けていた。何十年ぶりかに会った戦友の如き関係ではなく、つい数日前も彼と飲んでいたのだから会えた懐かしさとやらで目が潤んでいるという訳でもないはずだった。しかしその不規則な律動に何程か捉えられてしまったようで、なまなかな事では目を離す事が出来にくい空気に包まれてしまっていた。そうした風景に逆らう事も出来たような気がしないではなかったのだが、あえて吸引されるままになっていた。その中心の外になにげなく映っている、まだら模様のような背景は、何事もなくゆらいで、集中したそれに入り込もうともしなかった。少しづつ変化するようではあったが、聞こえてくる雑踏音とともにあるかのように、大した事件は起こらない。自身のよって立つところがただ、軋みはじめているだけだった。声を出せば、普段どおりの状況に戻れるはずだが、それを能動的にしたいとは思えず、相手も同じ事を考えているのか、一向に声を掛けてくる様子がなかった。にらめっこじみた我慢くらべを自然と強いられ、しかし困惑を覚える事がなかった。二人が、大塚のここだけを違った磁場としているかのように、たゆたっているかの如く、時間をただひたすら流していた。見つめる事以外に使う身体器官など、持ち合わせていないかにすら思える。注意深くしていればさまざまな事もわかるのだろうが、自分だけではなく双方ともに、そんな心持はないと思われた。やがて、ある程度の時が経って、息遣いがわかってくるようになった。もう磁場を作る力が残されていないのを知らせるサインなのかも知れなかった。ここであえてそれに逆らって、頑強に見つめ続けていてもいいのだろうとも考えたが、ふと見ると、相手の形相が苦々しく変わっているのがそれとなくわかった。しかし、今まで出そうともしなかったものを出してみるというのは、案外と決意のいるもののように思えてならなかった。そうしきれずにいるうちに、そわそわと、肝が落ち着かないようになってきた。もしやと感じて相手方の様子を再び伺うと、口元が、あ、あ、と、何かを発しているように動いている風に感じた。しかし耳には相変わらず雑踏のもの以外は、届いてこなかった。じれったくしているのをなんとか安心させてやりたいと思い、こちらもどうにか努力しようとするのだが、それを声にして出す事が、なぜだか難しいのだ。ずしりとした、澱というか、粘っこい納豆の糸のようなものが、双方の何かを縛りつけて、離してくれないでいるのだった。
二、三回程の、そいつとの脂っこい戦いの後、すでに疲労を覚えてはいたが、やっとの事で声を出すのに成功した。何の事もない挨拶だったが、それを出してしまった後、急速に世界が二人の間に溶け込んできて、先程まであったはずの磁場も地面に吸い込まれてしまったようになっていた。もう少し浮き上がった、閉ざされた世界を味わっていたい気もしないではなかったが、体力がそこまでを要求するレベルには至っていなかったのだろう。相手方を見ると、まるで狐につままれたような表情をしていたのだが、眼つきだけはどことなく乖離している風で、微妙に険しかった。
と、目の前に何かが現れて視界を一瞬遮った。何かと思ったのだが、よく見ると相手の右掌だった。軽く笑いながら、相手は、目がぼんやりとしているようだったのでいきなり目の前にかざしてみたのだ、と、利かん坊の子供にいい含めるかのようにおどけた調子で言った。そして、今日はどうした、何か憑いているんじゃないのかと続けて言い、そして腕時計の盤面を、こちらが見える方へ向けた。アナログ式の、もう何年も使っているらしいそれをすばやく見ると、待ち合わせの時間から15分が経過していた。案外長く、しかしもっと遅い体感が残っている気がした。いずれにしても微妙な時間に思われた。とりとめなくそう考えて呆けていると、これからどうするんだ、こんなところに突っ立ったままでいいのか、と相手方が言う。お前さんが仕掛けてきたんじゃないのかと、一瞬腹立ち混じりの、呪いの雰囲気に包まれてしまったが、丹田あたりで、我慢我慢、という声がした。その呼びかけにここは素直に従う事にし、君のいいようにしてくれよ、どこかでとりあえず一休みしようか、と言った。そう言えば待ち合わせには理由があったはずなのだが、それが何か、何故かその時に思い出せなかった。 何言ってるんだ、お前が呼び出したのだぞ。と、相手方、つまりKというのだが、その男が少々怪訝な顔つきをして叫ぶように強く、言った。目の前が、はっきりとした強い光に照らされたような印象を与えられたと思うと同時に、顔を気持分上げてみると、Kの容貌の、両眉の中心あたりが、そうは深くないがしかし苛立っているのが分かるような皺を形づくっていた。そして、なあ、おまえは本当にどうかしているぞ。会った時からボケッとしやがって。どうなっているんだ。と、矢継ぎ早に半ば呪いの様相を帯びた声色の言葉が、容赦なくぶつけられていくのだった。ほんの短い間、妙に激しいと思われたKの憤りとは対照的に、また呆けていた。そして発せられる言葉に適当な相槌を打ちながら、ゆっくりと思い出そうとしていた。無数の思いつきが、交錯しながら目の前をよぎり、そして、そのうちのいくつかが暮れ残る。はっきりと思い出そうとしてみるが、どこかに焦りというのか、急いでいるような風が内にあるらしく、空手の達人が薪を素手ですっぱりと割るような、そんな訳にはいかなかった。そのうちに、気が付くと手をKに引っ張られていた。何処へ行くのだろう。強い力に任せながら、あえて流されることにしてみた。引きずられそうになるくらいの速度だった。Kは小柄の、中肉中背のたいした特徴が見受けられない体格なのだが、そんな身体の何処にこんな力があるのかと思えるほどの、言いようのしれない感があった。こちらも大して体格に自信のある方ではなかったが、長年の肉体労働の賜物と言えるような体力が、きちんと備わっているつもりだった。Kも、そうしたいわゆるブルーカラーと言われるような仕事にでも従事していた事があるのだろうか。長年の付き合いだったが、そのような素振りや発言を、彼から聞いたことはなかった。そんなことに多少戸惑いながらも、風を頬に軽く受けているのを感じつつ、相手に合わせて歩幅を速めながらついていった。駅前の景色が流れるような流線を引いていた。方向は新大塚の方へ向かっていた。都電の停留所あたりから254、つまり川越街道に合流するだだっ広い道を、その方向に向かって小走りとも言えるような速さで、Kはこちらを引きずりながら歩く。横顔を見ると何かを睨みつけるような視線だった。先程のやりとりで焦れたような、いらついた心持なのだろう。その態度が、捕まれている手を通して小刻みな震えとなって伝わっていた。もっとも、怒りだけで震えているのかどうかは表情からは今一つ察知し切れなかった。確かにいらついた表情ではあったが、先ほどまで空間感覚における共有性を持って接していたはずだったから、Kにもこちらの在りようは理解できるに違いないのだ。それとも、そうした何ともいえない感触に捕らわれていた事が、かえって彼本来の有する精神とあまりにも懸け離れていたので、それに言いようのない怒りもしくは恐怖を覚えたのかも知れなかった。未知の事物には、人間は本能的に畏怖を抱くものだ。現に自身も、こうした得体の知れない思いが身体に纏いついていた。
がかいを縮めながら力強く歩いていたKを止めさせたのは、一軒の、今では数少なくなった、木の香りのする珈琲屋だった。通り道にはそれとなくラーメン屋や定食屋も見えたのだったが、腹が減るような時間帯であるはずなのにもかかわらず、見事なほど迷いのない歩調で乱暴に入っていった。店は、もう数十年も前に建てられたのではないかと思われる高層アパートの下の、商店街の並びにあった。その重みにふさわしく、補修されてはいるものの、店内のあちこちになんとも言いようのない疲弊が漂っていた。客層も若者など一人も居ず、全身に疲弊の証を顕わにするような人達が二、三人程、よく手入れされた感じのする木製の椅子に佇んでいた。
アイスコーヒーでいいか、とKがぶっきらぼうにつぶやくと即座に主人と思しき初老の、白髪混じりの口ひげを蓄えたひょろっ