遊び場
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蓬這い
投稿時刻 : 2019.05.24 02:47
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蓬這い
ひやとい


 大塚の自宅から三業通を抜けて駅前に出た。この近辺でも晴れやかな部類に入るこの界隈に、以前、金の延べ棒が5000万円相当発見されたというのを思い出す。あれは確か、発見者が浮浪者だたという話だが、すぐ近くに巣鴨警察署があたので、重かたであろうその拾得物も、善良な発見者にはさぞや届けやすかた事だろう。6月を待たずに礼の一部をもらたのか、それとも全額を受け取る幸運に恵まれたのかは知らない。
 かつては山手線の駅前とは思えないほど、木造モルタル作りの寂れたゲームセンターや閉店してかなり経つであろう酒屋等が点在していたこの場所も、数年前の再開発で真新しいビルが建ち、少しずつ様相を変えている。人通りも幾分、騒がしくなているようだた。雑踏から付かず離れず歩き、南口のあたりの、都電の停留所まで来てのち、しばらくはつていた。ズボンの右ポケトから煙草を取り出して、ライターも取り出すと火を点けた。二、三回程軽くふかした後、深々と吸い込んで口を呆けるように開けて吐き出し、その形状を気を遠くしながら観察する。これを数回繰り返して、ようやく待ち人が来た。
 彼は右手を自身の頭の方まで上げながら会釈してきた。先に見つけられた格好となた。上げた右手を少しずつ緩めて、ぶらりと降ろされるまでの時間には、立ち話が出来るくらいの距離にまでお互いが近づいていた。左手には火の点いた煙草を持ていた。改めて待ち人の顔を観察すると、向こうも同じ事をしているみたいに、こちらを凝視している様子だた。働きかけているそれは、ほんの少しではあたが、しかし早い動きをしている。何かこう、目線を他に動かすのが躊躇われて、しばらく観察し続けていた。相手の目線は、キメラを持ち慣れない者が焦点を捉えられないかのようにぶれ続けていた。何十年ぶりかに会た戦友の如き関係ではなく、つい数日前も彼と飲んでいたのだから会えた懐かしさとやらで目が潤んでいるという訳でもないはずだた。しかしその不規則な律動に何程か捉えられてしまたようで、なまなかな事では目を離す事が出来にくい空気に包まれてしまていた。そうした風景に逆らう事も出来たような気がしないではなかたのだが、あえて吸引されるままになていた。その中心の外になにげなく映ている、まだら模様のような背景は、何事もなくゆらいで、集中したそれに入り込もうともしなかた。少しづつ変化するようではあたが、聞こえてくる雑踏音とともにあるかのように、大した事件は起こらない。自身のよて立つところがただ、軋みはじめているだけだた。声を出せば、普段どおりの状況に戻れるはずだが、それを能動的にしたいとは思えず、相手も同じ事を考えているのか、一向に声を掛けてくる様子がなかた。にらめこじみた我慢くらべを自然と強いられ、しかし困惑を覚える事がなかた。二人が、大塚のここだけを違た磁場としているかのように、たゆたているかの如く、時間をただひたすら流していた。見つめる事以外に使う身体器官など、持ち合わせていないかにすら思える。注意深くしていればさまざまな事もわかるのだろうが、自分だけではなく双方ともに、そんな心持はないと思われた。やがて、ある程度の時が経て、息遣いがわかてくるようになた。もう磁場を作る力が残されていないのを知らせるサインなのかも知れなかた。ここであえてそれに逆らて、頑強に見つめ続けていてもいいのだろうとも考えたが、ふと見ると、相手の形相が苦々しく変わているのがそれとなくわかた。しかし、今まで出そうともしなかたものを出してみるというのは、案外と決意のいるもののように思えてならなかた。そうしきれずにいるうちに、そわそわと、肝が落ち着かないようになてきた。もしやと感じて相手方の様子を再び伺うと、口元が、あ、あ、と、何かを発しているように動いている風に感じた。しかし耳には相変わらず雑踏のもの以外は、届いてこなかた。じれたくしているのをなんとか安心させてやりたいと思い、こちらもどうにか努力しようとするのだが、それを声にして出す事が、なぜだか難しいのだ。ずしりとした、澱というか、粘こい納豆の糸のようなものが、双方の何かを縛りつけて、離してくれないでいるのだた。 
 二、三回程の、そいつとの脂こい戦いの後、すでに疲労を覚えてはいたが、やとの事で声を出すのに成功した。何の事もない挨拶だたが、それを出してしまた後、急速に世界が二人の間に溶け込んできて、先程まであたはずの磁場も地面に吸い込まれてしまたようになていた。もう少し浮き上がた、閉ざされた世界を味わていたい気もしないではなかたが、体力がそこまでを要求するレベルには至ていなかたのだろう。相手方を見ると、まるで狐につままれたような表情をしていたのだが、眼つきだけはどことなく乖離している風で、微妙に険しかた。
 と、目の前に何かが現れて視界を一瞬遮た。何かと思たのだが、よく見ると相手の右掌だた。軽く笑いながら、相手は、目がぼんやりとしているようだたのでいきなり目の前にかざしてみたのだ、と、利かん坊の子供にいい含めるかのようにおどけた調子で言た。そして、今日はどうした、何か憑いているんじないのかと続けて言い、そして腕時計の盤面を、こちらが見える方へ向けた。アナログ式の、もう何年も使ているらしいそれをすばやく見ると、待ち合わせの時間から15分が経過していた。案外長く、しかしもと遅い体感が残ている気がした。いずれにしても微妙な時間に思われた。とりとめなくそう考えて呆けていると、これからどうするんだ、こんなところに突たままでいいのか、と相手方が言う。お前さんが仕掛けてきたんじないのかと、一瞬腹立ち混じりの、呪いの雰囲気に包まれてしまたが、丹田あたりで、我慢我慢、という声がした。その呼びかけにここは素直に従う事にし、君のいいようにしてくれよ、どこかでとりあえず一休みしようか、と言た。そう言えば待ち合わせには理由があたはずなのだが、それが何か、何故かその時に思い出せなかた。 何言てるんだ、お前が呼び出したのだぞ。と、相手方、つまりKというのだが、その男が少々怪訝な顔つきをして叫ぶように強く、言た。目の前が、はきりとした強い光に照らされたような印象を与えられたと思うと同時に、顔を気持分上げてみると、Kの容貌の、両眉の中心あたりが、そうは深くないがしかし苛立ているのが分かるような皺を形づくていた。そして、なあ、おまえは本当にどうかしているぞ。会た時からボケとしやがて。どうなているんだ。と、矢継ぎ早に半ば呪いの様相を帯びた声色の言葉が、容赦なくぶつけられていくのだた。ほんの短い間、妙に激しいと思われたKの憤りとは対照的に、また呆けていた。そして発せられる言葉に適当な相槌を打ちながら、ゆくりと思い出そうとしていた。無数の思いつきが、交錯しながら目の前をよぎり、そして、そのうちのいくつかが暮れ残る。はきりと思い出そうとしてみるが、どこかに焦りというのか、急いでいるような風が内にあるらしく、空手の達人が薪を素手ですぱりと割るような、そんな訳にはいかなかた。そのうちに、気が付くと手をKに引張られていた。何処へ行くのだろう。強い力に任せながら、あえて流されることにしてみた。引きずられそうになるくらいの速度だた。Kは小柄の、中肉中背のたいした特徴が見受けられない体格なのだが、そんな身体の何処にこんな力があるのかと思えるほどの、言いようのしれない感があた。こちらも大して体格に自信のある方ではなかたが、長年の肉体労働の賜物と言えるような体力が、きちんと備わているつもりだた。Kも、そうしたいわゆるブルーカラーと言われるような仕事にでも従事していた事があるのだろうか。長年の付き合いだたが、そのような素振りや発言を、彼から聞いたことはなかた。そんなことに多少戸惑いながらも、風を頬に軽く受けているのを感じつつ、相手に合わせて歩幅を速めながらついていた。駅前の景色が流れるような流線を引いていた。方向は新大塚の方へ向かていた。都電の停留所あたりから254、つまり川越街道に合流するだだ広い道を、その方向に向かて小走りとも言えるような速さで、Kはこちらを引きずりながら歩く。横顔を見ると何かを睨みつけるような視線だた。先程のやりとりで焦れたような、いらついた心持なのだろう。その態度が、捕まれている手を通して小刻みな震えとなて伝わていた。もとも、怒りだけで震えているのかどうかは表情からは今一つ察知し切れなかた。確かにいらついた表情ではあたが、先ほどまで空間感覚における共有性を持て接していたはずだたから、Kにもこちらの在りようは理解できるに違いないのだ。それとも、そうした何ともいえない感触に捕らわれていた事が、かえて彼本来の有する精神とあまりにも懸け離れていたので、それに言いようのない怒りもしくは恐怖を覚えたのかも知れなかた。未知の事物には、人間は本能的に畏怖を抱くものだ。現に自身も、こうした得体の知れない思いが身体に纏いついていた。
 がかいを縮めながら力強く歩いていたKを止めさせたのは、一軒の、今では数少なくなた、木の香りのする珈琲屋だた。通り道にはそれとなくラーメン屋や定食屋も見えたのだたが、腹が減るような時間帯であるはずなのにもかかわらず、見事なほど迷いのない歩調で乱暴に入ていた。店は、もう数十年も前に建てられたのではないかと思われる高層アパートの下の、商店街の並びにあた。その重みにふさわしく、補修されてはいるものの、店内のあちこちになんとも言いようのない疲弊が漂ていた。客層も若者など一人も居ず、全身に疲弊の証を顕わにするような人達が二、三人程、よく手入れされた感じのする木製の椅子に佇んでいた。
 アイスコーヒーでいいか、とKがぶきらぼうにつぶやくと即座に主人と思しき初老の、白髪混じりの口ひげを蓄えたひとした男に注文を、憤懣をぶつけるように叫んだ。周りの客が多少驚いた様子でこちらを振り返ていたが、Kは別に気にも止めなかた。堂々と窓側の空いている席へ座ると、おまえも早く座たらどうだ、と低いが通る声で言た。仕方なく言われるままに座ると、自然と下を向いた。多少居たたまれなくなりかけたが、彼の胸中を察するとそうしてばかりもしていられなかた。
 なにしろ先程の不可解な現象を不意に体験した上に、呼び出した当の本人であるこちらが、待ち合わせの理由を一向に思い出せないときている。Kが怒りを顕わにしたところでやむを得ない部分があると、納得せざるを得なかた。このまま下を向き続けるのもよくないことだろうと思いはするのだが、機がなかなかつかめないでいた。彼を不愉快な気持ちにさせた責任は多分にこちらにあるので、こうした一種、閉塞した状況を打開する意思は大いにあるのだが、待ち合わせの理由を少しも思い出せないのでは、どうしていいのかわからなかた。いそのことでち上げられればよかたのだが、Kとの、普段からの近しい付き合いを考えるとこれもいまひとつ不調だた。
 Kはおもむろに、タバコとライターをズボンのポケトから焦れたそうに取り出すと丸太で作たと思しき古びたテーブルの上に放り投げ、その際にポケトから飛び出した布を手で突込み押し込んでしまうと乱暴にタバコの箱から一本取り出して火をつけた。深々と吸い込み声を気持ち出しながら吐き出すと人心地ついた様子になたようで、表情から苛立たしさがほんの少し消えたように感じられた。と同時に口髭の男が冷をいかにも恭しそうに持てきて、アイスコーヒーお二つですね、と、にこやかに言うが早いか、足早に仕事場に戻て行た。思わず冷が旨そうに見えてすぐ口に含む。心地よい冷たさが脳天にまで染みわたるような感触をひとしきり楽しむと、Kにならてタバコに火をつけた。
 とりあえず、ひとしきり落ち着いた格好にはなたのだが、和らいだとはいえKの表情は険しさを消してはいなかた。なにしろ先程の不可解な現象を不意に体験した上に、呼び出した当の本人であるこちらが、待ち合わせの理由を一向に思い出せないときている。Kが怒りを顕わにしたところでやむを得ない部分があると、納得せざるを得なかた。このまま下を向き続けるのもよくないことだろうと思いはするのだが、機がなかなかつかめないでいた。彼を不愉快な気持ちにさせた責任は多分にこちらにあるので、こうした一種、閉塞した状況を打開する意思は大いにあるのだが、待ち合わせの理由を少しも思い出せないのでは、どうしていいのかわからなかた。いそのことでち上げられればよかたのだが、Kとの、普段からの近しい付き合いを考えるとこれも今ひとつ不調のままだた。だがこうした間こそが、言葉を切り出すのには絶好の機会であるだろうというのには、間違いはなかた。機を逃すまいと感じ、何か挨拶みたいなものでもいいから言葉を声の形にする必要があた。だが先程の大塚駅前の時のように、またそうしたものが詰まていく。何か、突然失語症にでもなたような状態に陥ているようだ。そうした情けなさを棚上げにしつつKのようすも期待をこめながらそれとなく伺うが、いささか和らいだ感のある心持を口に出す気配が、どうもない。またあの、磁場が形成されていくように思えた。
 避けなければならない。そう、腹の奥から危険信号が発せられるように思える。何をしているのだ、と。

<未完>
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