私がデブでブサイクで二段腹で猫目になったのはお前たちのせい
いつの時代でも、女性像というもののは男の「こうあ
ってほしい」という理想を反映しているものだ。女性は本当はこうでありたいと思っていたとして、でもである。
そんなわけで、男たちの理想と欲望を満たすべく、私はここにいるのだが、いつの時代であっても、私はこうも言われるのだ。
「不細工」
「デブ」
「二段腹」
「猫目」
冗談じゃない。私はもっと、スマートでぼっきゅっぼんを希望していたのに、こんな姿にしたのは、男たちのくだらない女性像なのだ。なのに、こんなふうに言われるのは、甚だ心外であるし、遺憾の意を表明する次第である。
ケース越しに子どもたちの声を一身に受けながら、私は盛大にため息をつく。だいたい、当時の男も女も痩せ細り、「ふとみ」こそが裕福の象徴などとうそぶいて作り上げたこの私。
物というものは残酷である。同じように作られた姉妹は壊れたりして、寿命を全うできたが、たまに私のように不運にも完全な姿で、未来の人間たちに掘り起こされる物も存在するのだ。
移ろいゆく時代は、人間たちの美的感覚や美的「技術」を進歩させる。一方で、一度作られた当時の美的感覚や技術は、二度とは進歩しないのだ。
加えて、神への捧げ物だとばかりに、宗教を私のなかに吹き込み、多くの人間たちの感情や思考を取り込んでしまった私は、その身体を徹底的に破壊されるまで、この世に存在してしまうのである。
私を眺める人間たち、特に女性は、当時の人間たちと同じように細身を身上とするがごとくの出で立ちをしている。なにを「象徴」とするかは、時代によって移り変わり、されど女たちの美的感覚は一貫しているように思う。そうでなければ、目の前の群衆たちはもっと色とりどりになってもおかしくはないだろう。
そこにいかにも恰幅のよい婦人が現れる。まるで、私を擬人化したかのような風貌に、思わず私は喝采をあげる。きっと彼女は大変に裕福なのだろう。当時のひとびとが私に願いを吹き込んだように、幸せを謳歌しているに違いない。
美的感覚に惑わされぬ、人間本来の幸せ。私がここに存在し、群衆に揶揄されながらも、鎮座しているその理由こそ、彼女というその存在なのだ。
存在意義を改めて感じ取った私は、胸が熱くなる思いで、歩くのにもひと苦労の婦人を見つめる。婦人もまた、私のように目を細めてこちらを凝視する。過去と未来の現在が交差するこの場所で、彼女はゆっくりと口を開く――
「土偶。ブッサァ……笑」