小栗栖の竹
「私」はこの一帯にあまねく張り巡らされている。どれが私、ではない。総てが私だ。
私の地下茎は地中を這い、食い込み、あちこちで地表へと突き出る。私の仲間が取り付いた土地は、もはや平坦ではあり得ない。絡み合った塊が土を盛り上げ、茎は太く、逞しく聳え立ち、離れてみれば巨大な土塊が地中から産み出されているかのようだ。
私たちは中が空洞で、節を持ち、強靭にできている。植物の中でも際立って繁殖力が旺盛で、しかも人間にとって平時には主たる用途がない。ここが大事だ。人間たちが私たちに目を向けるとき、それは己が存亡に関わる非常時だ。
八十年ほど前、ろくに資源を持たないこの国はおよそ勝ち目のない戦に臨んだ。案の定、序盤は優勢に進めたものの、次第に劣勢を余儀なくされた。今にして思えば、序盤の戦果は、本来ならマラソン競技なのにスタートから百m走と同じダッシュをしてみせただけだった。百mを過ぎれば、短距離で体力を使い果たしたランナーには地獄が待っている。なぜ、そのような愚かな戦法が罷り通ったのか。百m走る間だけ戦果を上げれば、それを「功績」として出世できると考える輩が国の上部に跋扈していたからだ。それはあの時代に限ったことではない。現代でも、さらに昔でも、この島国にはそうした近視眼的思考が時に「潔さ」の名で持て囃されてきた。上陸してくるであろう敵兵を倒すため、子供たちにも私たちを使った戦闘訓練が行われた。銃を持つ敵兵を「二人殺せ」と命じられた。一人目を倒してもすぐに死体から先端が抜けなければ不覚を取る、と先端部を火で炙り、油をつけて磨いた。その純粋さと愚かさを思うと、涙を禁じ得ない。
あの男もそうだった。稀に見る才気と冷静さ、さらには人望も兼ね備えていた。あの男には理想があった。そのために、敢えて自らの主君を弑殺した。これ以上ない好機を逃さぬ見事な謀叛だった。だが、その先が見えていなかった。期待した仲間には背かれ、寡兵にて決戦に臨むも、敗れた。
男は僅かな手勢と共に落ち延びた。その悄然たる様は今でも目に浮かぶ。小栗栖の薮に差し掛かり、そこで潜んでいた農民の繰り出した一撃に薨れた。名もない農民には武器はない。手に取れるのは、そう「私」だけだ。私は正確に、男の腹部を貫いた。愚かで純粋な農民によって殺されたあの男。
私の切り取られた薮はいまだにそこにある。そして私の地下茎は、今やこの国を覆うまでになっている。