ジャンクフード
残業を切り上げ急ぎ足で電車へ駆け込んだものの、駅に着いたらスー
パーの灯りは消えていた。いつものように15分くらい閉店時間が延びると期待していたのだが、どうやら僕の目論見は外れてしまったようだ。倹約しようとここしばらく自炊を頑張っていたのに、1ヶ月も経たずに計画は頓挫してしまった。なか卯で親子丼でも食べて帰ろうと諦めかけていた僕だったが、ふと、棚にしまったカップ麺の存在を思い出した。自炊を志す者にとってインスタント食品は逃げであり、敗北である。だが調理というひと手間を掛ければ、それはインスタントではなくなる。カップ麺を素材にした料理になるのだ。
意気揚々とアパートのドアを開けた僕はそのまま玄関で立ち尽くした。部屋の灯りが点いていたことも、ドアに施錠がされてなかったことも疑問ではあったのだが、そんなことが些末に思えるほどの衝撃が目の間に広がっていた。
「おかえり」
緑のたぬきを片手に部屋からひょっこり顔を出し、割り箸を軽く掲げて挨拶をする。僕が僕に。
「誰だ、お前は?」
「誰って、そりゃ僕だよ」
蕎麦を啜った勢いで汁が顔に跳ね、僕は忙しなく瞬きを繰り返した。いや、僕その2がだ。
「とりあえず、突っ立ってないで入りなよ」
呆れたような表情で僕その2は肩をすくめ、目線で部屋の中に上がるよう誘う。訳が分からなすぎて逆に冷静さを取り戻しつつあった僕は、言われたままに靴を脱いで框を跨いだ。
「お前は僕なのか?」
勝手に部屋着を着られているので、スーツを脱ぐべきか迷う。ネクタイだけ外した僕は僕その2の対面に、ここの主人は自分だと威圧するように肩を揺らしてあぐらをかいた。
「僕は僕なんだよな」
生年月日も経歴も家族構成も、僕その2は把握していた。僕しか知り得ない幼少期の思い出も、僕その2はまるで自分のことのように語っていた。1時間ほど繰り返した質問はやがて尽き、僕がもうひとりいるという実感だけが頭の中を占めていた。
「で、どうするよ?」
僕がこの世に2人いる必要はないし、対外的にとても困るので、当たり前の結論を求める。
「そんなに難しく考えるなって。交互に仕事へ行けば毎日が楽になるだろ。僕が抱えるストレスなんて、あっという間になくなるさ」
僕その2の言い分もよく分かる。仕事の失敗を重ね、ついには上司からだらしない私生活を直せと理不尽な介入が始まった。休日関係なくどんな一日を過ごしたか日誌を書いて毎日提出しなければならない。プレッシャーは悪循環を生み、失敗を恐れた僕は余計に過ちを繰り返す。自分を見つめ直す自由な時間を作れば多少は改善されるかもしれない。
「逃げちゃえばいいんだよ」
吐き捨てるみたいに僕その2は呟く。僕は僕だから、僕その2もプレッシャーに押し潰されそうになっているようだ。
「僕はやれば出来るって、お前も知っているだろ? いまのペースじゃ無理なんだ。もう少し、ほんの少しの余裕があれば、会社の連中が驚くぐらいの成果が出せる。美幸さんとだって付き合えるかもしれない」
自分が分かっていることを言葉にされると腹が立つ。なんだか未確定な状況を言葉によって確定されたみたいだ。
「じゃあ、僕の代わりにお前が働いてくれよ。口じゃいくらでも言えるんだから、実際にお前が証明して僕に見せてくれ」
「馬鹿だなあ」
緑のたぬきに箸を置き、僕その2は僕を冷めた表情で見据えた。
「証明するもなにも、それをするのは僕じゃないか」
反射的に拳を振り抜いていた。頬の内側が犬歯で裂ける。
「お前なら出来るんだろ? なにもかも上手くいくんだろ?」
薄ら笑いを浮かべた僕その2は真っ直ぐ僕を見つめたまま殴られ続けている。
「僕なら出来るよ。もう無理だ、出来ないと諦めているから僕がいるんだろ?」
僕その2は禅問答で話を逸らす。出来る証明を、その方法を教えるまでは、僕は腕の力を決して緩めない。
「簡単に諦めるなよ。手間隙かけて、自分で気づけよ」
顎の骨が折れて口の形が変わっているのに、僕その2はやたら饒舌だ。なんとか黙らせたいから近くに転がっている鉄アレイを喉仏に押し込む。全体重を掛けて潰してしまえば、もう僕を笑うことさえ出来ないだろう。
「いつから諦めたんだよ。新卒で入った頃はあんなに目を輝かせていたじゃないか」
髪の毛を引きちぎり頭皮を赤く染める。まばらに残った縮れ毛を爪切りで丁寧に切り落とす。僕の中に答えがあるなら、もう分解して探すしかない。鼻と耳に包丁を入れ凹凸をなくし下拵えを開始する。皮膚の裂け目に指を差し込み、型崩れをしないようにゆっくり剥がす。爪の間に黄色い脂肪が詰まって気持ち悪い。ビニール手袋をすればよかったと後悔するが、先に進めるしかない。新鮮なうちじゃないと、僕には答えが分からないような気がするのだ。頭蓋骨を揺すって眼球を落とす。神経の束は少し力を入れれば簡単に切れる。猿の脳みそってどうやって調理するのだろう? 頭頂部の筋に刃先を挿れて割ればいいのか? まあいいや。頭蓋骨を容器にすればそれらしく見えるだろう。ペットボトルの水を流し込んで血を洗うと、心臓みたいに鼓動しているピンク色をした脳が露出する。調味料はいるのか? 塩コショウを軽く振ろうか。どうやっても脳の皺に塩が固まってしまう。味が偏るからこれはいけない。余っているオリーブ油があるからそれで流そう。脳が鼓動している。僕の心臓とまったく同じリズムで。同じ、僕と同じ。
僕はようやく僕になった。いや、失ったものを取り戻したんだから我に返ったというのが正しい。夢か幻覚か、いまとなっては定かではないが、淡白な脳の味を僕ははっきりと覚えている。仕事は相変わらずダメダメだ。口煩い上司はすっかり呆れ果ててなにも言わなくなった。美幸さんは結婚退職をしてしまった。別支店のイケメンとだ。野望も願望もいまだ僕の中には存在しない。これからどう生きていくか展望もない。
まあ、それでもいいかと思えている。