てきすとぽい
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第10回 文藝マガジン文戯杯「気づいて、先輩!」
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犬の家・猫の家
(
MOJO
)
投稿時刻 : 2020.01.24 19:07
字数 : 2952
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犬の家・猫の家
MOJO
ある晩、深夜料金のタクシー
で帰宅した私が玄関の扉を開けると、たたきの隅に、愛媛蜜柑、のロゴが入
っ
たダンボー
ルの箱が置かれていた。音をたてぬよう扉を閉め、箱を覗きこむと、白い仔犬が私の着古したセー
ター
に包まれて眠
っ
ている。私は仔犬を抱きとり、居間には寄らずにそのまま階段を上がり自室に戻
っ
た。ジ
ャ
ー
ジに着替え、ベ
ッ
ドのふちに座り、仔犬を膝の上にのせてみる。目を覚ました仔犬は不安げな様子で私を見上げている。
「おい、よくきたな」
そう話しかけると、仔犬は私の鼻のあたまをぺろりと舐めた。
三重の健雄号。
厚い和紙の血統書には仰々しい筆書きでそう記されていた。私たち家族はその紀州犬の仔犬をケン坊と呼んだ。ケン坊はやんち
ゃ
な仔犬だ
っ
た。庭先で干してある洗濯物に飛びつき、首を振
っ
て破いてしまう。散歩に連れだすと、電線にとま
っ
ている鴉を見上げ、ぱくんぱくんと口を鳴らしながら威嚇する。
純血種の日本犬は成犬に育てば丈夫だが、それまでは細心の注意をはら
っ
て飼育しなければならない。ケン坊は家族全員からの寵愛を受け、我侭い
っ
ぱいに育
っ
てい
っ
た。
生後一年がたち、犬のスケー
ルからいえば思春期を過ぎる頃にな
っ
ても、ケン坊は散歩の途中で飽きると道端に座り込んでしまう。リー
ドを引
っ
張り、歩くよう促してもてこでも動かない。
「この我侭犬め」
しかたなく、私は体重三十キロ余りのケン坊を抱いて帰
っ
たものだ。そんな様子を近所の人々は笑
っ
て眺めたが、ケン坊はあくまで日本犬に特有の、威厳のある顔つきで私に抱かれているのだ
っ
た。
ケン坊は成犬になると、ブリー
ダー
からド
ッ
グシ
ョ
ー
にだすことを薦められるような、とても姿の良い犬にな
っ
た。その気にな
っ
た私は、ある大会にケン坊を連れてい
っ
た。しかし甘やかされて育
っ
たケン坊は、にわか仕込みの作法を発揮することができず、凡庸な結果しか得られなか
っ
た。
ケン坊が来るまえから、我家には雉虎の雄猫がいた。その猫を父は「渡辺」と呼び、弟は「ユウゾウ」と呼んだ。「渡辺」は父が勤める会社の、あまり有能とはいえない部下の姓であるらしか
っ
た。「ユウゾウ」は弟が傾倒するインデ
ィ
ー
ズバンドのボー
カリストの愛称だ
っ
た。しかし母はその猫を「ミー
」と呼んだ。「渡辺」にも「ユウゾウ」にもその猫は尻尾を立てる反応しか示さなか
っ
たが、母が「ミー
」と呼べば鳴いて応えるのだ
っ
た。
ミー
は臆病な猫だ
っ
た。塀に鴉がとまると、庭の茂みから捕獲の態勢をとるが、鴉がそれに気づきガー
と鳴いて飛びたてば、驚いて駐車場のクルマの下へ逃げ隠れてしまう。繁殖期には、雌の争奪戦で耳が千切れそうになるほどの怪我を負
っ
て帰
っ
てくる。時おり鼠や雀を捕まえてきては母のところへ持
っ
て行き、ぽとりと落して自慢気に鳴いたが、母からは怒られるばかりだ
っ
た。
しかしミー
はケン坊から慕われた。社会的な群れで生きる狼の系譜であるケン坊にと
っ
てミー
はこの家の先輩であ
っ
た。
ケン坊は、散歩の途中でミー
を見かけると、私や他の家族にするように尾を振りながら寄
っ
てい
っ
た。しかし社会的序列という概念の枠外にいる猫族のミー
にと
っ
て、大きな犬の荒々しいスキンシ
ッ
プなど迷惑な話だ
っ
た。ケン坊は塀の上に避難してしまうミー
を、いつも不思議そうな顔つきで見上げていた。
しかし、あるときからミー
が奇妙な行動をとるようにな
っ
たのである。ケン坊を散歩に連れだすと、ミー
がいつの間に近くに来ていて、私とケン坊を先導するのだ。ミー
は私たちから二十メー
トルほどの間隔をあけ、辺りを注意深く見渡してから振り向いて鳴いた。
あたかも、ここまでは安全だから心配しないでついて来い、と言わんばかりである。
しかし、散歩コー
スの途中にある橋の袂までくると、ミー
はそこから先には一歩も進めないのだ
っ
た。
本来、繁殖期以外は単独で生きる猫族は、個体ごとにテリトリー
が決ま
っ
ていて、他の個体がそこへ侵入すると激しく攻撃される。どうやらその橋の袂が、ミー
と他の猫との境界線であるらしか
っ
た。
さ
っ
きまで辺りを睥睨しながら威張
っ
ていたミー
は、橋の欄干に飛び乗り、遠ざかる私とケン坊にむか
っ
て哀しげな声色で鳴いた。ケン坊はミー
を振りかえりつつ、何かを訴える表情で私を見上げるのだ
っ
た。
散歩の度に繰り返されるこの小さなドラマは、私たち家族を和ませた。
ある年の、暮れもおし迫
っ
た十二月二十四日の早朝、母が入院先の集中治療室で死去した。私は手短に葬儀業者への手配をすませ、クルマを飛ばして首都高速を下り自宅に戻
っ
た。ケン坊を散歩させ餌と水を与えた。ミー
の餌箱に猫缶を盛
っ
た。ケン坊はどことなくそわそわした様子だ
っ
た。ミー
は姿を見せなか
っ
た。
病院に戻る首都高速の登り車線は、通勤ラ
ッ
シ
ュ
で渋滞していた。私は途中のサー
ビスエリアで仮眠をとるべく駐車したが、渋滞が解消される時刻にな
っ
ても眠ることはできなか
っ
た。
男三人での生活が始ま
っ
た。掃除や洗濯は、週に二回ホー
ムヘルパー
がや
っ
て来て片付けた。三人はお互いを労わりながら暮した。しかし半年も過ぎた頃から、次第にぎすぎすしたものを感じるようにな
っ
てい
っ
た。つまらないことが気に入らない。クルマで遠出した者がガソリンを入れずに車庫へ戻すと、次に乗る者が文句を言う。だれかが酒の肴にするつもりでいたカラスミを、他のだれかが食
っ
てしまう。そんな些細なことが澱のように溜まり、いつしか私たちは、酸欠の水槽で泳ぐ魚のようにな
っ
てしま
っ
ていた。
弟が結婚し家を出た。父が後妻を娶
っ
たのを契機に、私も通勤に便が良い処に引
っ
越した。
父は出勤するまえにケン坊を散歩に連れてい
っ
た。しかし義母は犬を好まない人で、ケン坊には餌と水を与えるだけだ
っ
た。長年朝夕二回の散歩に慣れたケン坊は、次第にストレスをため込むようにな
っ
てい
っ
た。
定年退職すると、父の決断は早か
っ
た。ケン坊を郊外に住む部下に引き取らせ、家を売りに出した。買い手がつくと、後妻の出身地である西日本の大都会にマンシ
ョ
ンを買
っ
て引
っ
越してい
っ
た。
私は父から訊いた住所にケン坊の様子を見にい
っ
た。しかし「渡辺」の表札がかか
っ
たその家に、犬が飼われている形跡はなか
っ
た。そのことを父に告げると、父は一言「そうか」と呟いた。
数年後のクリスマスイブの日、父が東京に出てきた。怪我をして入院している私を見舞うためだ。私は外出許可を取り、弟の運転するクルマで、私たち三人は母の墓に参じた。
車中で父が興味深い話をした。
「この間、渡辺の奥さんから電話があ
っ
てな。あいつは死んだそうだ。大宮の車両操作場で、変死体で見つか
っ
たんだとさ。酔
っ
払
っ
て寝過ごすうちに、車両ごと操作場に入
っ
ちま
っ
たんだな。夜明けに非常ドアを開けて外に出たところを隣の線路を走
っ
ていた列車にはねられたらしい」
霊園に着いた私たちは、御影石の墓に水をかけて花束を供えると、他にすることはなくな
っ
てしま
っ
た。
因縁ついでにもうひとつ興味深い事実を語ろう。
ミー
は母が死んだち
ょ
うど一年後のクリスマスイブの日に、かかりつけの獣医の診療室で死んだ。私はミー
の亡骸を引き取り、ペ
ッ
ト葬を取り扱う業者に持ち込み焼いてもら
っ
た。
どこのだれが住んでいるのかは知らないが、ミー
の骨壷はいまもあの家の庭の片隅に埋ま
っ
ているのである。
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