第55回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動8周年記念〉
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加速する風景
投稿時刻 : 2020.02.15 23:45
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加速する風景
ポキール尻ピッタン


 21年間生きてきて、ドラマテクと呼べる瞬間にはまだ出会たことがない。学業も仕事も人間関係も、クライマクスどころかクライシスの気配さえ感じられないぐらいの平穏な人生を過ごしてきた。喧嘩なんてしたことがない。なにごとも穏便に当たり障りなくこなし、優秀でも劣等でもなく、ただただ普通の立ち位置になんの疑問もなく安住し続けていた。

 高校を卒業して半年くらい経たある日、家族を車に乗せて父方の祖父の葬式へ向かた。免許を取たばかりで運転が楽しかたから、茨城の水戸から静岡の御殿場までひとりでハンドルを握た。父親の古いトヨタ・カリーナはサスペンシンがふわふわして車体が安定せず、お世辞にも速い車とは言えなかたが、長距離運転でのマニアルトランスミンの操作は新鮮で興奮できる体験だた。自分の一挙一動に車が反応し、まるでモビルスーツにでも搭乗しているかのような気分になる。遠くに映ている標識があという間に背後へ消える。届かないと思ていたものに手が届く体験は、自分の心に欲を生み出した。自分ならもとできる。それは当時の自分が無意識に感じていた欲望だた。
 葬儀で出会た親戚の叔父が僕をレースに誘た。富士スピードウイというサートで若い頃にいろいろなレーサーと競い合ていたらしい。僕が車の運転を好きだと知り、近所のガレージを紹介してくれた。もちろんプロのレーサーになるつもりはない。あくまでも趣味として楽しみたい。ガレージの社長の勧めでレンタルした車は、フラジニア(FJ1600)という入門カテゴリーのマシンだた。
 年間わずか6戦で6、7人しかエントリーしていないシリーズ。自分と同じぐらいの歳の子もいればおさんや女性もいる。本気で上のカテゴリーを目指す者もいれば自分のように趣味で楽しんでいる者もいる。
 初戦はもちろん最下位だ。それでも4.5キロをスピードなんか気にせずに駆け抜けるのは最高だた。みんなよりも遅くても気にしない。喧嘩はしないから、コーナーで車を寄せられても先に行かせてあげる。上でも下でもない中間、その心地よい場所で僕は満足していた。

 11月の最終戦。少しだけ運転が上達した僕はトプが見える位置をキープして走行する。本当に最高の1年だた。来年も乗るかどうかはまだ決めてないけど、違うことも経験してみたい。
最終コーナーで前の車がスピンした。目の前に隙間ができる。抜いていいのか僕は考える。全力を出し切たことなど一度もない。おそらくこの先もない気がする。
 僕はアクセルを思い切り踏みつけストレートへ侵入した。風景から色が消える。音も消えている。
 僕は全力を出し切たことなど一度もない。
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