第56回 てきすとぽい杯
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人生が繰り返されるとして
投稿時刻 : 2020.04.18 23:28 最終更新 : 2020.04.18 23:39
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- 2020/04/18 23:39:34
- 2020/04/18 23:28:51
人生が繰り返されるとして
浅黄幻影


「永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて――
 もう何人もの俳優たちがこの台詞を繰り返し繰り返し、マイクの前で発声している。これは私の大好きなミラン・クンデラの著作「存在の耐えられない軽さ」の冒頭だ。
 私には彼女たちの声が聞こえ、姿が見える。
 ――ブースの中、ガラス越しに見える姿は真剣な目つきと顔で台本を読み上げ、わずか一四〇字程度の文字を追ている。彼女たちの中に、私は私がずと求め続けている運命の声の主を探している。
 それは、私がまだ視力を失う前のこと、あるとき公園で一人の女性が台本を朗読しているのに出会たときのことだ。少しばかり曇り、ほどよく日が射している暖かな午後、彼女はいくつかの台詞を身振り手振りを交えながら読み上げていた。そういう場面に出会たのは初めてだたが、おそらく演劇などの演技練習だたのだろう。あるいはパフマーとして通行人を楽しませていたのかもしれない。
 彼女は台本を替えながら、一時間以上、そこで演じ続けた。私が知ているものはハムレトだけだたが、彼女の声はとても美しいものだた。男も女も、強きも弱きも演じることができ、視線の先には相手の俳優が本当にいるであろうという光景がはきりと見て取れた。
 そして演じるものの声になりきるだけでなく、声そのものが美しかた。声量があり、はきりと通り、高低もしかりと出せた。
 本当のことを言えば、その日の私は恋人(今の妻)と一緒に映画を見た後だた。公園を散歩して通りかかて。つい立ち止まて聞き入てしまたのだ。恋人も最初はいい声だ、立ち回りが美しいと言ていたのだけれど、私があまりに見続けるので怒る始末だた。
 そこで永劫回帰の語りが始また。
 私は一瞬、それがミラン・クンデラのものなのか理解できなかた。私が考えていた「存在の耐えられない軽さ」とは違ていた。なぜなら――ミラン・クンデラは男で、彼の語り(あるいは架空の語り部の語り)はそのまま男のものだと思ていたからだ。私の知ていた美しさは転調・転律し、新しい姿を見せた。
 しばらくすると、彼女の近くでタイマーのアラームが鳴り、彼女は台本をバグにしまい込んで去ていた。私は今、目の前で起こた美しい光景に胸の高まりを隠せないまま、目を丸くして彼女を見ていた。そして恋人は呆れて怒りを露わにし、私は彼女に理解してもらうのに苦労した。もちろん、理解などしてもらえず、その日のデートはそこで終わてしまた。
 恋人と結婚をし、家族が増え、みな幸せに暮らしていた。私の視野が急激に狭くなたのは、その頃だた。最初の頃は気付かなかた。穴が開いたように視野が抜け落ちてきていたが、その部分は脳が補ていたらしい。だが、ついに脳の処理は追いつくことができなくなり、何も見えるものはなくなた。
 私の悲痛は言うまでもないが、その中に光として残たものの一つが、あの俳優の演技だた。彼女の声はいつまでも私の中で響いていて、大好きなミラン・クンデラを読み返すたび、第一文に書いてある言葉が彼女の声で再生されていた。今でも思い出すことは可能だが、残念なことにそれは一ページに満たない短いものだた。私は彼女の声で、ミラン・クンデラのすべてを聞きたいという夢を、こそり抱いていたのだ。
 私は妻にこのことを話した。今なら話せるだろう、あの日の誤解が解けるだろうと思たのだ。妻は理解してくれたし、一つ提案をしてくれた。知り合いの音響関係者に頼んで、可能なときだけでも俳優や声優の声を聞かせてもらおうというものだた。
 何とか都合のつくときだけでもと頼み込んだ末、この願いは受け入れられた。


 多くの女性の声を聞いた。たくさんの美しい声があり、素晴らしい声の持ち主たちに会たが、私の求める声の人は未だに現れない。このままでは何年かかるかわかたものではない。一年後、十年後もこうしているかもしれない。
 私はいつまでも彼女を探し続けるつもりでいる。
 ミラン・クンデラは「一度経験したことが何もかももう一度繰り返される」と永劫回帰について問いかけているが、もしそれが事実であるのなら、私がこの人生で出会えなければ、いつまでも会えないことになる。
 人生は一度きりであり、決して「もしも」はありえないとは言う。もし一度の人生で大きな後悔をしてしまい、さらに人生が繰り替えさられるのだとしたら、それはあまりにも苦痛すぎる。
 私は出来るだけの時間を彼女を探す時間に費やして、何とかもう一度見つけ出し、もう二度と失わないようにしたい。望みはただ一つ、「存在の耐えられない軽さ」の完全な朗読だ。
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