甘い涙
世の中にはいろんな涙があるようだ。何人かで歯を食いしば
って流す涙。2人で抱き合って流す涙。1人大声で流す涙。真夜中、ひとり静かに流す涙が1番いい。
なんて言ったらいいんだろう、春の桜のような感じ。
ふわりとした甘い香りが一瞬で消えてしまうような、見逃してはいけない『何か』があるようで、動きを止めた瞬間、胸のあたりがツンとするのがいい。こぼれ落ちるのを待てず、目尻にたまりかけたのを舐め取ってみる。すると、口の中いっぱいに春風が吹いたような、淡い甘さが駆け抜ける。舞い上がる薄ピンク色の嵐とともに、自分の中にある『何か』が湧き上がる。ドキドキと鼓動が高鳴る。たまらない。
忘れられないあの味を、今夜も思い出しながら月夜の小道を歩いていると、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。
「よぅ、ルリネコ。またヤツの所か?」
呼び止められたルリネコは、声がする方をキッとにらみ、いつも行くアパート目掛けて走り出した。
夜道を歩く見慣れたネコの姿を見つけて、声をかけたのはヨダカだった。
ヨダカは、ルリネコににらまれるとニッと笑って、1つ2つと茶色の翼を羽ばたかせ、キョキョキョと鳴いた。見上げればきれいな満月がこちらを見ている。まるで何かを見透かされているようで、ヨダカは居心地が悪く感じた。
ルリネコは名前の通り、青ガラスのような澄んだ瞳と、短く艶のあるブルーグレーの美しい毛並みの若いネコ。月の光を浴びて、曇った銀色に光るその背中を見ながら、ヨダカは思った。どうやら最近、若い男に餌付けでもされて、涙の味を覚えたらしい。月が夜空を登りきると、いそいそとヤツの所へ行き、東の空が明るんでくると、寝ぐらにしている町外れの神社に帰ってくる。
確かに涙はうまい。だが、ただうまいだけじゃない。あのほんのりとした甘さの裏に、流したヤツの『何か』得体の知れないモノが紛れ込んでいるのだ。特に、人間の誰か大切な人を思って流す涙は、芳醇な香りを立ててオレ達を惑わす。ペロペロと夢中になって舐めていると、知らぬ間に、あの得体の知れないモノが体の中に溜まっていく。オレ達の体を支配していく。黒く、黒く塗りつぶしていく。
サキが落ちた闇。
この薄汚れた翼のせいで森を追われたオレの目の前に立ち、シルバーグレーの翼を自慢するイケすかないヤツ。だけど小心者で調子のいい、どこか憎めないヤツだった。毎晩、田んぼで虫を突きながら、単調なサキの自慢話を聞くのは、慣れてしまうと楽しかった。
ある三日月の晩、サキは夜な夜な田んぼの端でシメシメと泣く女に出会った。毎晩のように、その女の涙を夢中になって舐めた。すると、シルバーグレーの美しい翼はだんだんと濃いグレーと変わっていき、その変わりように恐ろしくなったオレは、あの女と会わないよう、サキに頼んだ。何度も何度も頼んだ。だけどサキにはオレの声が届かなくなっていた。仕舞いには真っ黒い翼になってしまった。翼だけじゃない。いつも、カエルの跳ねる水音に怯えていた赤いつぶらな瞳も、ギラギラと黒光りする様になってしまった。隣りにいるオレの映らない瞳になってしまった。
そしてオレの知らない間に、新月の闇の中へ飛んで行った。
今では『ヨガラス』と呼ばれる、オレの友達。オレのことを忘れてしまった、オレの友達。
ルリネコは何も知らない。涙の味に夢中になっているアイツのことだ。この話をしても信じてくれないだろう。やめろと言えば言うほどひねくれて、聞く耳を持たなくなるだろう。でも黙って見ている訳にはいかない。
どうしたらいいんだ。ヨダカの小さな頭の中は、グルグルと渦を巻いていた。