第59回 てきすとぽい杯
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接着剤に気をつけろ
投稿時刻 : 2020.10.25 23:39
字数 : 2260
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接着剤に気をつけろ
ポキール尻ピッタン


 ラキーの駆け回る足音が、玄関の外まで響いている。私の帰宅を待ち構えるような忠犬らしさなんて、いままで微塵も見せたことがないので、おそらく貴美子が遊んであげているのだろう。夜の10時をまわているのに、娘が起きたらどうするつもりだ。まさか寝かしつけてないなんてこと、ないだろうな。
「ただいま」
 ドアを開けると、貴美子の返事の代わりに異臭が鼻孔へ飛び込んできた。塗料のような接着剤のような、シンナーに似た刺激臭が充満している。足元に駆け寄たラキーは興奮した様子で目を輝かせ、よだれを垂らしていた。
「あら、お帰りなさい」
 リビングに入ると、思案顔の貴美子が床にぼんやり座ていた。絨毯の上には50センチ四方の白い紙が広げられていて、その脇に蓋が外れたベー色の容器が置いてあた。刺激臭の元は、どうやらその容器を満たしている白いペーストらしい。
「なにやてんだよ」
「朝ね、ラキーと美由紀が追いかけこをしていて、転んだ美由紀が扉を壊しちたの。すごいのよ。アマゾンて午前中に注文したらその日に配達してくれるの」
 名前を呼ばれたと勘違いしたラキーが、貴美子の膝に勢いよく飛び込んだ。
「引き戸の破れた紙を、修理しようとしていたのか」
 いつのように要領を得ない貴美子との会話を先回りし、私は隣に座て胡座をかいた。
「窓開けて換気しなよ」
「だて、寒いもの」
 マフラーを貴美子の肩に掛け、リビングの窓を少し開ける。寝室を覗くと娘は穏やかな顔で、バンザイをしたポーズのまま熟睡していた。
「壁紙の糊て、こんなに臭いのか」
 座り直した私はおかなびくり容器を鼻に寄せた。それにしても1キロなんて必要ないだろう。このマンシンの部屋の壁紙を、全て張り替えたとしても余裕で余りそうだ。
「壁紙はこれだけ?」
「ううん。残りは納戸に入れたよ。びくりしちた。長い筒で来るんだもの」
 おお、ロールで買てしまたのか。しかも柄が合ていない。
「俺が今度の休みにやるからさ、貴美子はこれ、片しちて」
 浴槽に浸かり、天井を見上げた私はため息を吐いた。鼻の奥にまだ匂いが染み付いている。シンナーの匂いは子どもの頃にプラモデルを作た記憶を呼び起こす。それと、なんだろう? カセトテープやビデオテープの封を開けたときの匂い、だ。薄いテープに溶剤を使たら溶けてしまいそうな気もするが、磁性体を塗る工程にきと必要なのだろう。
「そういえば、」
 実家の自分の部屋で、ビデオテープの山が埃を被ているのを思い出した。録画したテレビ番組はいらないけれど、友だちと遊びで撮た映像は残しておきたい。たしか古いビデオをDVDかなんかに焼いてくれるサービスがあた気がする。貴美子は娘に付ききりだから、自分の時間を使て映像を編集したりしたら面白いかもしれない。

 実家から回収したビデオテープは、1本を除いてすべてDVDとなた。残た1本は、テープが切れて傷が多く再生できないと業者のメールに書いてあた。観られないと知り、却て私は内容が気になてしまた。一緒に映ている友だちに申し訳ないとか、失た記憶を取り戻したいとか、適当な言い訳を頭に浮かべながら、ハードオフに寄て安いVHSデキを購入した。再生しすぎて千切れたカセトテープを修復したことがある。セロハンテープを貼ただけの稚拙な作業だたが、ちんとスピーカーは音楽を奏でた。ヘドが痛むとか気にする必要もない。一度再生して内容を確認できればそれでいい。
 ネトで調べながら、VHSカセトの分解を始める。小皿にネジを置いてプラスチクのケースを上下に引く。小さなバネとプラスチク片が机に転がり、リールに巻かれたテープが顔を出した。シンナーのような刺激臭がかすかに漂う。テープが切れていたと言うが、外から眺めても痕跡が見つけられない。巻きが少ない片方のリールを回して、光沢があるテープの表面を注視する。
 切断箇所は修理されていた。合計8箇所。透明なテープが切断部に裏当てされている。接着剤の匂いがまだ残ていた。
「業者がやてくれたのかな?」
 ありえないと知りながら口に出す。じあ誰が?
 組み立て直したVHSカセトをデキに挿入した。早送りと巻き戻しを繰り返し、テープのたるみを調整する。カウンターを見ると120分テープなのに、73分しか表示されなかた。
 パソコンのモニターに映し出された映像は、記憶を鮮やかに蘇らせる。大学の友人たちとキンプへ行たときの記録だ。すかり疎遠になたやつもいる。いまだ連絡をくれる友もいる。子どもじみた結婚の約束をした当時の彼女もいる。
 私と彼女が二人きりで映るはずのカトがすべて切り取られていた。記憶に残ている彼女との会話は跡形もなかた。映像はノイズを伴い不自然に繋がれている。これは8年前の映像だ。彼女とは別れて7年半が経つ。貴美子といまの会社で出会たのは3年前だ。話題にしたこともない。私には大切な思い出だが、友だちも忘れているような短い交際だた。知るはずがない。出身地も年齢も違う。
「ラキー、ご飯にするからパパを呼んできて」
 ドアの曇ガラスに黒い犬のシルエトが透けている。時折聞こえるガラスを爪で引掻く鈍い音は、私の鼓動を加速させた。機械のうねりが高鳴り始め、デキからカセトがガコンと吐き出された。カセトを抜くとだらしなく伸びたテープがデキ内へと続いている。中で絡まてしまたようで、いくら引てもテープは元に戻らなかた。
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