くちなしの木
よく犬は人間の何十倍も嗅覚が鋭い、実際に鋭いとは思います、最近読んだ雑誌にも書いてありましたけど、犬は飼い主がどういう気持ちなのか、匂いでわかるらしいですね。悲しんでいるのか、喜んでいるのか、犬がス
ッと空気を吸い込んだら分っちゃうっていうのは、すごいなあと思う反面、怖いですね。ジャーマンシェパードとかボーダコリーとかああいう賢い犬を飼いたい場合は、飼い主が彼らよりも賢くないといけないんですね。よく言われるのが、昨日と今日で飼い主が違うこと言っていたりすると、つまり一貫性のない言動を飼い主がしたりすると、もう彼らは、は、何こいつ、ついてけんわほんまって、もう終わりなわけです。だからですね、もしジャーマンシェパードを飼っていたとして、言動と感情が不一致の状態で接したりすると、すいません、いい例えが浮かばなかったので、この抽象的な状態のまま話させてもらいますけど、ジャーマンシェパードの頭の中で、一貫性のない、しょーもない奴っていう解が出てしまうわけです。感情ってそんなコントロールできるものじゃないじゃないですか。だから大変ですよ、ああいうジャーマンシェパードだとかボーダーコリーだとか賢い犬を飼うのは。初心者にはまずお勧めしないですね。
犬の話をしましたけれど、人間も人間で匂いに敏感だったりするんですよ。どこで聞いたのか忘れちゃったので、出典を提示して皆さんにこの信憑性を証明することはできないのですが、なんでも、匂いっていうのは人間の記憶に強烈に結びついて、脳細胞の中に保存されるらしいですよ。ありませんか? 線香の匂いだとか、畳の匂いを嗅いだときに、ふっとおじいちゃんの家の柱の木目、あの人の顔の木目のことを思い出したりだとか。コインランドリーの前を通ったときに香った石鹸の清潔な匂いと、素敵なあの子の制汗剤の匂いが結びついたりだとか。あるでしょう?
つまり、人間にとっても匂いというのは大事な要素なわけです。だから人は香水をつけたり、柔軟剤を入れたり、良い匂いがするってことは遺伝子が遠いっていうことだから、僕らはとっても相性が良くて、これはもう運命なんじゃないかなとか言ったりするわけです。
今は11時3分。一応あと30分持ち時間が頂けているので、残りの30分間、私の記憶の話をさせて頂いてもよろしいですか。この問いかけは反論を予定していない、よろしいですか、と尋ねておきながら、話しますよ、という宣言ですから、そのご認識、よろしくお願いいたしますね。
三大香木ってご存知ですか。沈丁花、くちなし、金木犀。もしご存知でなかったら、これ知っているとお上品な雰囲気が出ますから、覚えて帰ってくださいね。沈丁花はどんな香りか今思い出せません。さっきは知ったかしちゃいましたけれど、沈丁花自体どの花のことかわかっていません。まあ、生きていればそういうこともあります。金木犀、これはわかります。金木犀の香りを嗅ぐと、くしゃみが出ます。でも良い匂いですよね。一時期、金木犀の香りの香水が欲しくて色々探し回ったこともあります。母親に、トイレの芳香剤みたいにならない? と言われ、なるほどその危険性もあるのか、と納得したので、最終的には買っていないんですけれど。くちなし、英語ではガーデニア。このくちなしの香りは本当に大好きで、確か初めてこの匂いを嗅いだのは、どっかのお店で売っていたシャンプーの香りがくちなしで、それを嗅いだのが初めてなのです。そのシャンプーは買ってしばらく使っていましたね。ガーデニアの香りがすると書かれていた、ペンハリガンの「エレネシア」という香水も、大学生の時ずっとつけていました。それぐらい大好きな香りだったんです。
さっき、沈丁花はどんな香りでどんな花かわかりませんと言いましたけれど、くちなしも少し状況は似ていて、香りはシャンプーやら香水やらで嗅いだことがあるから分かるけれど、どんな花なのかは全く知りませんでした。
6月ぐらいだったと思います。彼氏と公園をデートしていた時のことです。その公園はかなり古い公園で、レトロスポットとかネットで検索をかけると、ランキングの一番上に出てくるような、古い、古い公園です。彼氏がトイレに行きたい、と言ったんです。でも古い公園なんです。トイレはあるのですが、いかんせんそのトイレも古くて、有象無象が便器の中から出てきそうなトイレなんです。よくホラー映画とか、私はホラー映画は好きじゃないので観たことがなく、これはあくまでもイメージ、そういうイメージがあるよねっていう例えなんですけれど、ホラー映画でチカチカと点滅する蛍光灯とかあるじゃないですか。このトイレもその蛍光灯がチカチカしていて、黒い虫がブンブン飛んでいたんです。
私は感受性が豊かで想像力も豊かな方ですから、そのトイレを見た瞬間に、ウワッて頭の中にイメージが浮かんできて。トイレの小便器の前に立つ彼氏、すると後ろの個室のドアがゆっくりと開き、中から油でギラついた頭をした、動物に例えるならばガマガエルがしっくりくるような、変質者のおじさんが、その手には包丁が、とここまで浮かんできたんですね。
もう私、怖くなっちゃって、もうちょっと我慢して違うところ行こうよって言ったんですけれど、彼氏はもう我慢に我慢を重ねた上でのトイレ行きたいだったらしくて、膀胱炎になったり、脳にアンモニアがのぼって行ったら大変だと思って、トイレ行っておいでって言ったんです。
丁度、傘を持っていたので、有事の際に備えて傘を、こう、中世の騎士みたいに構えて、変質者が個室から出てきたらすぐにその脳天を貫けるよう、準備万端、いつでも出て来いという心持ちで待機しました。トイレの入り口の少し横、歩道の敷かれていない土のところに立つと、トイレの個室のドアが鏡越しに見えて、私はそこで神経をウニ並みにトゲトゲと尖らしていました。
その時です。あの香り、私の大好きなあのくちなしの香りがしてきたのです。おやつの匂いを追うビーグルのように鼻を香りに導かれるまま、振り向くと、そこには白い花がたくさんついた木、くちなしの木があったのです。
以来、梅雨の時期にくちなしの香りが香ってくると、いつもあのくちなしの木のことを思い出します。