第14回 文藝マガジン文戯杯「花言葉」
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待宵月
あち
投稿時刻 : 2021.02.11 23:58 最終更新 : 2021.02.13 00:17
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- 2021/02/13 00:17:05
- 2021/02/12 00:05:07
- 2021/02/11 23:58:19
待宵月
あち


「すみれ、夜はちんと戸締りするのよ。」
 お母ちんはそう言うけれど、眠れない夜は戸を開けて、静かにお空を見上げるの。するとね、お月様がこちらを向いて、優しく笑てくれるのよ。何故だかあたし知らないけれど、お月様を見てるとね、あなたに会える気がするの。
 ね富士兄、覚えてる?桜の花が咲く頃に、祝言挙げるて言たよね。だけどね、もう、花びら散て緑の葉ぱになた。あんな石ころ送り付けて、どこへ行てしまたの?
「富士男は不死男。たとえ兵隊に行たとしても、俺は死なずに帰てくる。」
 そう言て約束したね。指切りげんまん指切りしたね。もしも約束違えたら、針を千本飲むんだよ。
 ね富士兄、気づいてた?小学校に上がる前、裏の神社の藤棚の下で、毎日飽きずにままごとしたね。あたし、あの頃からずと、富士兄のお嫁になる事が、たた一つの夢だた。
 すみれの花の花言葉。お嫁に行た姉さんが、あたしにくれた最後の言葉。
『私を一人にしないで』
 だからね、同じ名前のあたしのことも、一人にしないで欲しかた。
 今夜は幾望、明日は望月。晩春の宵は恋思い。

 俺のかわいい笑顔のすみれ。強がり言て出立したが、暗く冷たい戦場は、誰もが孤独で病んでいた。身の上語る戦友も、拳を上げる上官も、小さな小さな希望を胸に、なけなしの勇気を振り絞り、何かに憑りつかれた様に、血走た目をして狂てく。俺は狂気の世界の中で、いつもと変わらぬ夜空を仰ぎ、満ちゆく月見ておまえを思い、欠けゆく月見て涙した。小さなおまえの笑顔を胸に、何も思わず何も感じず、時の流れに体をあずけ、爆風の中に体をあずけた。
 俺は富士男、不死男は藤男。約束守れず無念にも、体は無くしてしまたが、心は風に運ばせて、あの藤棚に宿る事、どうか許してくれないか。
 なすみれ、覚えているか?小さな俺と小さなすみれ。節句の膳の蛤の、貝殻で挙げた幼い祝言。俺を見上げるつぶらな瞳に、なぜだかドキリと胸を打た。なぜだか守りたいと無性に思た。あの時の貝の片方を、今でも大事に仕舞てあるよ。
 なすみれ、知ているか?さみしがり屋のおまえのことだ。俺がいないと泣くよりも、他の男と一緒になて、子ども達に囲まれて、幸せになて欲しいと思た。だけど勝手な男の思い。俺のいない知らない所で、おまえが笑て暮らすのは、おまえが幸せに暮らすのは、どうにもこうにも許せなかた。
 藤の花の花言葉。昔、近所の姐さんが、にやりと笑て教えてくれた。
『決してあなたを離さない』
 だから俺も離さない。例え全てを無くしても、おまえだけは離さない。静かな月夜、藤の花の香りに乗て、必ずおまえを迎えに行くよ。きれいな満月待つように、俺のことを待てて欲しい。
 今夜は幾望、明日は望月。晩春の宵は愛願う。

 全てのものが息潜め、静寂が包む真夜中に、ソヨソヨ吹くのは春の風、ヒソリ見てるは満たぬ月。待宵月は待ている。愛しい人を待ている。
 開け放しのガラス窓。一人の女が見え隠れ。夜風がスルリと忍び込む。藤の甘く重たい香りが、女の部屋を満たしていく。
「裏の神社の藤の花、今年もきれいに咲いたのね。」
 女は長い黒髪を、肩から背中へ手で流し、怪しい月夜を仰ぎ見る。紫色の甘い風、女の体の隅々までも、淋しい色に染め上げて、窓辺の外のその先の、満たぬ月の明かりの下へ、優しくまつわり誘い出す。薄暗い夜の細い道、おいでおいでと手を引いて、誰もいない寂しい道、おいでおいでと背中を押す。行きついた先は思い出の場所。あなたとあたしの大切な場所。誰もいない藤棚に、いるはずのないあなたがいた。
「富士兄?」
 その人は少しはにかんで、優しく微笑みあたしを見つけた。
「富士兄、どこに行てたの?ずと待ていたんだよ。」
 広げられた大きな腕。長い黒髪なびかせて、走り出して飛び込んだ。夢にまで見たあなたの腕。恋に焦がれたあなたの胸。淋しい色に染まりきた、満たないあたしの体の中に、温かい何かが満ちてきて、一筋の涙が静かにこぼれた。
「すみれ!」
 その人は目に涙を浮かべ、なりふり構わず飛び込んできた。
「すみれ。どうか許しておくれ。おまえを抱く事、許しておくれ。」
 細い腰を引き寄せて、涙が光る女の頬に、優しく、優しく口付ける。月に思た愛しい笑顔、月に涙した恋しい瞳。孤独にもがき病んでいた、俺の欠けた体の中に、何か温かく柔らかいものが、ピタリときれいにはまて満ちた。黒髪が俺の腕にまつわり、白い腕が首に絡む。
「すみれ、俺の愛しいすみれ。もう離しはしないから。ずとずと一緒だよ。」
重くまたりまといつく、甘く切ない藤の香に、二人の体は溶けていく。淋しい色は溶けていく。二人の体に溶けていく。かすかに揺れる藤の花。淋しい二人を優しく包む。

 薄く明らむ旭日の、少し冷たい朝の風。小鳥が歌を歌い出し、人がかまどに火を入れる。新しい一日が動き出す。小さな希望が動き出す。
 その時、人が見たものは、神社で人が見たものは、昇りきた太陽を、背に立つ古い藤棚の、枝と蔓と花に抱かれた、一人の裸足の女の肢体。季節外れの暁の露、幸せに落ちた女の涙。待宵月は待ていた。愛しい人を待ていた。
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