第四の男
梅雨の初めの頃でございます。三人の男がしとしとと降る雨の夜、酒瓶を前にして囲炉裏端で話をしておりました。
「この酒は苦労して手に入れた酒なんだ。なんとい
って、これは米が違う。このあたりじゃあ作ってない酒造好適米で、名は何と言ったか、ともかく、千粒重もいかほどだったか、とにかく大きな粒で、低タンパクで脂肪も少なく、それで形もよく……」
この英さん、酒は滅法好きだがやたらと蘊蓄話が好きでなかなか酒を飲ませません。待っているふたりは焦れて焦れて仕方がない。
「英さん、それはいいよ、早く飲もう」
米さんはそう言って急かしますが、それでも英さんはまだ話したりないと続けます。
「待ってくれ。まだあるんだ。造りが違う。きもとの造りなんだ。山廃なんて目じゃないね。ああ、山廃って名前もそもそもは山卸し廃止もとっていうので、きもと造りの山卸しって手順を廃止した造りだからな。きもと造りの方がより伝統的ってわけなんだが、それで」
年下でこのふたりと飲むのが初めての椎さんも、ずいぶん長い話だと思いながら、つい気を揉んでしまいました。
「英さん英さん、本当に本当に、私はもう待っていられませんよ。素晴らしいお酒だということは聞いています。どうぞ、もう飲ませてくれませんか?」
「椎さん、あんたまでそんなことを言うか、ううん、まだ話は朝まで続けられるというのに。仕方ない、ではふたりとも注いでやるからほらおちょこをそこへ……じっとしていろよ……うごくな……こぼすなよ……しゃべるな……息もするな……心臓止めろ……」
無茶を言うものです。
「おっとと」
「へへ、ありがてえ」
そうやって三人は飲み始めます。雨音だけが聞こえる夜は外界から隔てられた独自の世界を作り出しまして、人の仲のよさというものはよりいっそう深まるものです。
さあそうやってしばらく飲んでいると酔いも回ってきて、三人は与太話を始めます。
英さんは言います。
「この前、外海へ出たんだが、ちょっと遠くに行き過ぎちまってね。危うく戻れなくなるところだった。どっちを向いても何にもないところまでいっちまったんだ」
米さんが相づちを入れます。
「そりゃいけない。どうやって戻ってきたんだい」
「それがよ、流されているうちに変なところに出ちまったんだ。海の上に赤いひもがぷかぷか浮いていてな、それでそれを引っ張って……」
本当なら英さんはここで「そのひもっていうのはなんだったんだ?」と聞かれるのを期待していたのですが、新顔の椎さんはそんな段取りを知りません。英さんがネタを披露する前に答えを言ってしまいます。
「あっ、それは『赤道』ですね。いとしこいしが昔、漫才でやってましたよ。『海に赤い浮かんでいる、赤道だ』って。いとこい、おもしろいですよね」
英さんは話の腰を揉まれ……もとい、折られて少し気を悪くしましたが、そこは年長者。おお、そうだな、と気を取り直します。
「……おお、そうだ。冷凍枝豆があったな。すぐレンジして出してやる。ピッとすりゃあ、チンと鳴く……ほれ、チンだ」
チンされた枝豆の皿をあちちと言いながら英さんは運んで、飯台に乗せます。
「うめえ豆だぞ。なんつっても産地がだな……」
「あ、これだだちゃ豆ですね。豆が二個だけのやつですよ。毛もふさふさで」
うん? と英さん。
「たまに『茶豆』だと思ってる人がいるんですよねえ。だだちゃ、でお父さんって意味が正しいんですよ」
「おお、おう、よく知ってるな。そういう小さな知識の積み重ねが大事なんだよな。そういうのを」
「豆知識ですね! 大豆だけに!」
そんな風に椎さんは蘊蓄好きの英さんの話を悉く折っていきます。
一方、英さんと椎さんのやりとりを冷や冷やして聞いていた米さん。こりゃあ何か起きるんじゃないかと恐る恐るふたりを見ております。英さんは表情こそ笑ってはいるものの、頬の肉はぴくぴくと限界が近い様子。そこへいくと椎さんはこの先に何が待っているのかも知らず、まだ英さんの小ネタに横槍を入れていきます。
英さんも意地になっています。この小話なら知らないだろう、といくつもくだらないだじゃれやら蘊蓄やらを語ろうとしますが、すべて途中で椎さんが潰していきます。
ついに椎さん、頭にきてばかやろうと叫び、飯台をひっくり返しました。そして立ち上がり拳骨を点に突き上げます。
「てめえ、誰の酒だと思ってやがる! 俺の酒だぞ、俺の枝豆だぞ、俺の奢りだぞ! てめえは感謝するとか、お愛想とか、そういうののひとつだって持ちあわせちゃあいねぇのか!」
怒号で青くなった椎さん、立ち上がって英さんから離れ、すみませんすみませんの平謝り。
「英さん、椎のやつが悪かった。俺も止めないで悪かった! 許してやってくれ。せっかくの酒だ、もっと美味い飲み方をしようじゃないですか」
米さんが間に入って英さんをなだめますが、もう英さんの怒りは収まりません。酒瓶の首をぐっと掴むと、それを振りかざして椎さんに振りかざします。
酒瓶が椎さんの頭にガシャンと大きな音を立てて当たり当たります。椎さんは驚きのあまりその場にへたり込み、頭を押さえました。その手を見てみるとべっとりと血がついてくる、それに被った酒が次第に傷口に染みてくる。あたりにはガラス片が散らばっていて、もう大惨事。
自分の血を見て真っ青になった椎さんが顔を上げますと、まだ英さんの目は血走っていて、もう一度瓶を振り下ろそうと、ぐっと構えています。割れた瓶の先は尖り、そんなものがグサリと来たら怪我どころでは済まないかもしれない。
それなのに、ああそれなのに!
英さんは大きく振りかぶって酒瓶を、
酒瓶を……
酒瓶を…………
ちょうどお時間となりました。語り手は私、第四の男でございました。