鳥獣戯画
我輩は金魚の糞である。名前はまだない。何しろ生まれたばかりである。たいそうな難産であ
った。お産が始まってから長い間、母から離れることが出来ず水槽の中を彷徨っていた。やがて母の排泄口から独り立ちすると、まだ泳げない我輩はゆっくり水の中を落ちてゆき、水草の狭間に収まった。
生まれたばかりの我輩はものを知らぬ。自分が金魚の糞と呼称されるべき存在であるとを知ったのは、日に何度か水槽を覗き込む動物の雛が我輩をそう呼んだからである。まだ母にしがみついていた頃、我輩を指差して、
「あ、金魚が糞してる! 金魚の糞だ! 長ぇな!」
と叫びはしゃいだ。騒々しい水槽の外の様子など我関せずと言ったていで、母は友と閑談に興じていた。
「学校の水槽にいると、無駄な知識が増えるわ」
「私はあのまま店で売れ残るか、こんな水槽に入れられる前に小川に流された方がましだったと思う」
金魚の糞の正確な定義は知らぬが、少なくともこの水槽には我輩しかおらぬようである。しかし、水槽の外には一匹の金魚の糞がいるようだ。それはいつも黒板の前で怒鳴ってばかりいる動物の雄で、雛達は彼の者が大声をあげる度に身を竦め縮こまっている。雛達の親玉なのだと思っていたが、ある日、廊下で教頭という名の初老の雄の後ろを歩いている彼の者を指差し、雛の一匹が嘲るように笑った。
「見ろよ、金魚の糞だぜ」
それで、どうも彼の者が我輩の同胞であるらしいとわかったのだが、彼の者はあまり水槽に寄り付かぬ。黒板の前にばかりいる。今日も大声で雛達を叱りつけている。
「お前らはどうして動物を大切にしようという心がないんだ! ウサギがかわいそうだと思わないのか! 心を込めて世話をしなさい!」
静まり返った教室を眺めながら、ぐったりした母がぽつりと呟いた。
「私達の事も大切にしてほしいわね。ここ、直射日光が当たって暑いわ」
そんな我輩の日常にもついに大きな変化が訪れた。母達と水草は青いバケツの中へ、我輩は、母の友が永年望んでいた小川へと引き離されたのだ。水槽とは違う濁った冷たい水を泳いでいると、空から新たなる友が現れた。
「やあ、君は金魚の糞だね。僕は鳥の糞だ。よろしくな」
快活で知的な鳥の糞なるものに好感を持抱き、我輩は聞いてみた。
「我々はこの先どうなるのか、ご存知ですか」
「知っているとも。このどぶ川は大きな川に合流して海まで流れていき、微生物に分解され、地球上のあらゆる生命の糧になるのさ」