金魚の誘惑
漁師の吾作は、都会から来た身なりの良い紳士と2人で船を出した。紳士は樽くらいの大きさの箱眼鏡を持
っており、船が十分沖に出ると、紳士は箱眼鏡を水面に下ろしてしげしげと海中を観察しはじめた。
「そんなにいいものが見えますか」
「ああ、実に見事だよ。ねえ君、あそこに見える輝きは何かな、あれが珊瑚ってやつなのかい?」
「この海に珊瑚なんてねえですよ」と言いつつ吾作は腰を上げると、水面にプカプカ浮かぶ箱眼鏡を受け取って覗きこんだ。よく磨かれた硝子板の向こう側は緑がかった暗闇だけだったが、時折、銀色の細いものが視界を横切った。吾作が目をこらしていると、
「もっとよく見てみたまえ」という声が頭上からして、そのまま背中を強く押され甲板から足が浮き頭から真っ逆さまに水中に落ちた。
袖を引く者がいる。吾作は手足をばたつかせながら、どうにか片手で箱眼鏡の持手を掴みもう一方の手で誰かの腕にしがみつき、そっと目を開ける。
途端に極彩の世界が目を射った。彼らがいるのは、途方もなく巨大な金魚鉢の中であり、周りにはありとあらゆる種類と形の金魚が大群をなして、水流に運ばれながら儚げな姿態を震わせていた。上からも下からも眩しいサーチライトが絶え間なく向きを変えながら水中を舐めまわし金魚たちの乱舞を照らしだした。
「ほら、御覧なさい。これが海の美しさですよ」傍らの紳士が言った。
「海なんかじゃねえ」吾作は金切り声で叫んだ。「海はこんなに明るくない、こんなにどぎついもんじゃねえ。そうだよ」吾作は足にまとわりつく金魚を振り払いながら「海に金魚はいねえんだから」
「でも、美しいでしょう。美しいと評されるには、これくらいの狂乱がなくては。貴方方の子供達は、そうあれかしと望むのですよ」
黄色いサーチライトが横切り、紳士の姿を照らしだした。そこには、頭は金魚、身体は人間、手先はヒレという、ぞっとするような生き物が佇んでいて、銀色に縁取られた黒塗りの目玉でじっと彼を見つめていた。吾作の視線に気がつくと、分厚い下唇をパクリと開けて何度か動かした。水槽に注ぎ込まれた餌に食らいつく金魚の口元そっくりに。
陸に帰った吾作の話を信じるものはいなかった。海のお化けとはいえ、人魚でも海坊主でもない、あんまりにグロテスクだと言うのだった。けれど彼の息子は、それから数年経って船底を掃除している時、側面にブリキの金魚が打ち付けられた箱眼鏡を見つけたのだった。