第8回 てきすとぽい杯〈夏の24時間耐久〉
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泡沫の夢
志菜
投稿時刻 : 2013.08.18 12:28
字数 : 1000
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泡沫の夢
志菜


 阿弥陀池の辺にある小さな庵に、貸し本屋、信之介は入ていた。枝折戸を抜け、山のような荷物を背負たまま薄暗い土間の奥に向かて「往来堂どす」と声を張り上げる。
 ややあて、気だるそうな声が返てきた。
「奥に回てんか」
 信之介は生垣の脇を通て、奥の内庭へと回る。小さいが贅を凝らした瀟洒な庵である。
 釣りしのぶが掛けられた縁台の下で、一人の女がだらしなく着付けた浴衣の胸元を、団扇で扇いでいた。簾の陰に置かれたぎやまんの金魚鉢の光が、縁台にゆらゆらと影を落としている。
「今日はお一人ですか」
「飯炊き婆さんは孫の顔見に行た」
 足の爪を気にしながら言う女に、信之介は頷きながら、背負た荷物を下ろした。風呂敷包みを広げながら尋ねる。
「この前の本はどないでした? 続きが手に入たんで持て参りました」
「もう一つやたな。どかで読んだような話やた」
 手元の煙草盆を引き寄せながら、つまらなさそうに女は言た。信之介は、いくつか黄表紙を取り出す。
「ほんならこれはどないでしう。大店のご寮さんたちにも人気で――
「どこかに旅に出るようなんはない? 何もかも捨てて遠い所へ行くような」
 信之介の言葉を遮て、女は言う。信之介は首を傾げる。
……お伊勢はんとかでか?」
 煙管に葉を詰めた女が、ここで初めて信之介を見た。射る様な強い視線であた。
「持てないなら、あんたが連れて行てくれてもええけど」
 信之介は目を見開き、それから、慌てて笑みを浮かべた。
「何言うてはるんですか。てんご言わんといてください」
「てんごとちう。あんたやから言うねん」
 震える声で信之介は言た。
「わてが……わてが、惚れてること知てて、からかてはるんでし? 前に言うてはたやないですか。いつ来るかわからん旦那を待つだけの暮らしやたら、遊郭で客取てたときの方が生き甲斐あて。わてやなくても、ええんでし?」
……うちの言葉が信じられへんのやたら、もうええわ」
 かん、と雁首を灰皿に打ちつけながら、女は言た。その横顔に満たされない憤りがあるのを信之介は知た。
 風呂敷の上に並べた本を押しのけ、女の白い手首を掴む。
「本気で言うてはるんですね?」
 女は信之介を見上げた。すがるような目つきであた。
「手練手管で言うてるんと違う。うちは本気や」
 
 夕刻、飯炊き女が帰てくると、女の姿はなく、転がた金魚鉢の横で、金魚が白い腹を見せていた。
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