泡沫の夢
阿弥陀池の辺にある小さな庵に、貸し本屋、信之介は入
っていった。枝折戸を抜け、山のような荷物を背負ったまま薄暗い土間の奥に向かって「往来堂どす」と声を張り上げる。
ややあって、気だるそうな声が返ってきた。
「奥に回ってんか」
信之介は生垣の脇を通って、奥の内庭へと回る。小さいが贅を凝らした瀟洒な庵である。
釣りしのぶが掛けられた縁台の下で、一人の女がだらしなく着付けた浴衣の胸元を、団扇で扇いでいた。簾の陰に置かれたぎやまんの金魚鉢の光が、縁台にゆらゆらと影を落としている。
「今日はお一人ですか」
「飯炊き婆さんは孫の顔見に行った」
足の爪を気にしながら言う女に、信之介は頷きながら、背負った荷物を下ろした。風呂敷包みを広げながら尋ねる。
「この前の本はどないでした? 続きが手に入ったんで持って参りました」
「もう一つやったな。どっかで読んだような話やった」
手元の煙草盆を引き寄せながら、つまらなさそうに女は言った。信之介は、いくつか黄表紙を取り出す。
「ほんならこれはどないでしょう。大店のご寮さんたちにも人気で――」
「どこかに旅に出るようなんはない? 何もかも捨てて遠い所へ行くような」
信之介の言葉を遮って、女は言う。信之介は首を傾げる。
「……お伊勢はんとかでっか?」
煙管に葉を詰めた女が、ここで初めて信之介を見た。射る様な強い視線であった。
「持ってないなら、あんたが連れて行ってくれてもええけど」
信之介は目を見開き、それから、慌てて笑みを浮かべた。
「何言うてはるんですか。てんご言わんといてください」
「てんごとちゃう。あんたやから言うねん」
震える声で信之介は言った。
「わてが……わてが、惚れてること知ってて、からかってはるんでしょ? 前に言うてはったやないですか。いつ来るかわからん旦那を待つだけの暮らしやったら、遊郭で客取ってたときの方が生き甲斐あったって。わてやなくても、ええんでしょ?」
「……うちの言葉が信じられへんのやったら、もうええわ」
かんっ、と雁首を灰皿に打ちつけながら、女は言った。その横顔に満たされない憤りがあるのを信之介は知った。
風呂敷の上に並べた本を押しのけ、女の白い手首を掴む。
「本気で言うてはるんですね?」
女は信之介を見上げた。すがるような目つきであった。
「手練手管で言うてるんと違う。うちは本気や」
夕刻、飯炊き女が帰ってくると、女の姿はなく、転がった金魚鉢の横で、金魚が白い腹を見せていた。