金魚売
「ねえ! 昨日わたし見たよ」
バン! と、僕の机に両手をついた下村優花が開口一番にい
った。
「あの金魚売のおじさん、昨日も全然売れてないのに、ちょっと笑ってて……。それで正体を突き止めてやろうと思って追いかけたんだから!」
「ふーん」
朝の教室で、僕の席にやってきて武勇伝を語るクラスメイトに、心底ドウデモイイという感じの返事をする。
「あー! その顔は信じてない時の顔だ!」
「失礼だな。これはふつうの時の顔だ。平常だ」
「信じてたら、ヘイジョウなんかでいられないはずでしょ?」
優花はいっそう身を乗り出し、「べつに~」という感じの僕に迫る。
「じゃあ聞くけどさ。あの金魚売のおじさんは、どこに帰って行ったの?」
僕は問題の本質をつく。
そもそも全ては、優花の「売れ残った金魚は安くなるに違いない」という思いつきから始まったことなのだ。目下、彼女の関心はアクアリウム作りにあった。
「いや……。えっとね、見つけたんだけど、途中で見失っちゃって」
「どうやったら、あんなゆっくり歩いているのに見失うんだよ?」
「だってあのおじさん、ずっとトイレにも行かないし、飲み物も飲まないし」
「それで結局アレだろ? どこから来てどこに帰って行ったかはわかんないんだろ?」
「うぅ、たっくんのイジワル……」
この季節、近所を歩き回っている金魚売のおじさん。
あの人は、どこの誰なのか? それを語るのが、僕らの小学校でちょっとしたブームになっていた。
「でもね、5時間目が終わってすぐなら団地の広場にいると思う」
「なんで?」
「団地のおばあちゃんが、そういってたから」
僕は放課後はたいてい図書室に行くから、そういうことは知らない。
「ね、行こうよ!」
「どこに?」
「今日こそ、おじさんの隠れ家を突き止めよう!」
優花は一人で「おー!」と手を突き上げている。
「でも僕、掃除当番」
「じゃあ、広場で待ち合わせね」
そんな勝手なことをいって、優花は自分の席に戻っていった。
放課後。
掃除を終えた僕は一人家路につく。
広場には行かない。団地には近づかない。
誰もいない家に帰り、無数の水槽に包まれてぼんやりと過ごす。
優花は約束を破ったといって怒るだろう。でもこれでいいんだ。
やがて「ただいま」という声とともに父が帰宅した。「さあ、高橋熱帯魚店の開店時間だ」などといいながら、両側を水槽に挟まれた狭い通路を器用に歩く。
そして、売れ残りの金魚を数匹取り出し、ピラニアの水槽に放り込むのだった。