我が家のヒーロー
実家の引越しをするので片づけを手伝え、と母親から命令された。ち
ょうど大学の夏休み中で、サークルにも入らずアルバイトに精を出すくらいしかやることがなかった俺に断る理由はなかった。
父は海外赴任中で、実家には母が一人で住んでいた。俺が一人暮らしをする前、実家に住んでいた頃は父もまだワシントンに行く前で、なんとも狭苦しく小さい家だと常々思っていたものだが。母一人には家は広すぎるように思えた。元来母はきれい好きで、何かと散らかす俺と父がいないので部屋はがらんとしていた。
久しぶりに帰ってきた俺を迎えた母に、「引越しなんていつ決めたの?」と訊いた。
「まったく訊いてない気がするんだけど」
「そりゃ、この間初めて言ったんだもの。急に決まったのよ。来週には引っ越すわ」
「どこに」
「東京」
純粋に驚いた。
「家賃払えるの?」
「お母さんの仕事の都合だから大丈夫」
「……っていうか、いつから働いてるんだよ」
「この半年くらいかしら。さぁさ、時間もないし、とりあえずお父さんの部屋、片づけておいてもらえる? お父さん、引越しまでには帰ってこれないから、荷物は全部詰めちゃっていいから」
なんだかよくわからないが、俺は二階の和室にある父の荷物を整理することになった。段ボールはすでに山のように用意され、廊下を半分塞いでいた。
八月に入ったばかりで、冷房をいくらきかせても体を動かしていると汗がとめどなく流れた。本棚に並んでいた小説やら新書やらを適当に詰めるのは三十分足らずで終わり、次は衣装ケースの中身に着手することにした。
「……なんだこれ」
衣装ケースの中で、礼服やグレーのスーツになんだか異様なものが混じっていた。蛍光グリーン――ミントグリーンとでもいうのか――で、てかてかした素材。
引っぱり出して、絶句した。
よくある五レンジャー的な、戦隊ヒーローにありがちな、全身タイツのようなスーツだった。
背中の部分にファスナーがあり、そこから体を入れるようになっているらしい。胸元には反射板のような素材でVの字の模様があり、頭の部分はつるんと丸く、目元は黒いサングラスのようになっていた。内側から見てみると、視界は思ったよりもクリアだ。口元も生地が薄くなっていて、呼吸しやすいようにかメッシュ素材になっていた。
なんだこれ。なんなんだ。
そのとき、階下から母が呼ぶ声がした。
「お昼ごはん用意してあるから、切りがいいところで下りてきなさーい」
子どもの頃みたいだな、なんて思った俺は、このとき子ども的な発想を思いついた。これを着ていって、母を驚かせてやろう。
Tシャツとジーパンを脱いで、トランクス一枚になって戦隊スーツに両足を入れてみた。スーツの足の部分はブーツになっていて、普通に靴を履いているのと変わらない感触だった。よくできている。そのままスーツを腰まで引き上げた。ぴったり。父は俺よりも五センチ以上身長が低かったはずだが、足の長さは一緒だということなんだろうか。ちょっと悲しくなったが、俺はめげずに両腕、頭とスーツを着て、手を背中に回してファスナーを上げた。
スーツは伸縮性に優れているのか、俺の体に完全にフィットした。
この真夏にこんな全身タイツを着るなんてどうかしていると思いつつも、スーツを着てもまったく暑さを感じなかった。通気性もいいのかもしれない。
俺は意気揚々と階段を下り、母が待つリビングに顔を出した。
「……いい年して、何やってんの」
母の視線は思いのほか冷たく、スーツの中で顔が熱くなった。おっしゃるとおりでございます。
「それ、お父さんが宴会芸で使ってた奴ね。それじゃ、焼きそば食べられないでしょ。早く脱いできなさい」
しょんぼりと俺は二階に戻り、スーツを脱ごうとして背中に手を回した。が。
手に、何も引っかからない。
鏡の前に立ってみたり、しゃがんでみたりしたが、両手は背中の上をつるつると滑るばかりだった。
背に腹は代えられず、俺は再び一階に戻り、恥を忍んで母に助けを求めた。が。
「これ、どうやって着たの?」
ウケる、なんて、母はケラケラと笑いだしてしまった。
「面白いからこのままでいなさいよ」
なんて、冗談じゃない。
「脱ぎ方わからないなら、お父さんに訊いてみれば?」
時刻は正午を回ったところだった。父がいるワシントンとの時差はマイナス十三時間。俺は迷わず母に聞いた電話をかけた。
「スーツの脱ぎ方ぁ?」
久々に話す父は、いやに陽気だった。もともと口数が多いタイプの人間ではないのに、最近どうだ、彼女はできたか、なんて饒舌に訊いてきた。酔っているのかもしれない。ワシントンは今午後十一時だ。
「そりゃ、正義のヒーローのスーツだ。決まってんだろ」
父はもったいぶったように少し間をおいた。
「人のためになることをしなきゃダメだ」
……は?
「人助けをしろ、人助け。実はな、そのスーツ、お父さんが若い頃、宇宙人にもらったものなんだ」
何を言っている、この酔っ払いは。
「宴会芸で使った奴だって聞いたけど?」
「何を言う! それは、人助けをするためのスーツだ。だから、一定量の人助けをしないと脱げない仕組みになっている」
俺は反応に困ってしまい、答えられないでいたら「じゃ、がんばれや」と電話は切れてしまった。おい、とかけなおすが出る気配はない。
父の話を伝えたら、へぇ、と母は笑んだ。
「面白いじゃん。人助けしてきなよ」
おい、夫婦揃って何を言っている。
「人助けしてたら誰かが助けてくれるかもよ?」
母はぴしっと俺を指さした。人をやたらと指さすのは母の昔からの悪いクセだ。まぁ、それはともかく。ちょっと待て、その前にお前が助けろ。
なんて抗議する間もなかった。これも修行の一環だ、なんて、母はレンジャースーツ姿の俺を家の外に追い出してしまった。ぴしゃりとドアが閉められ、鍵までかけられてしまう。
困った。
人が多くない片田舎の住宅街だったのがまだ救いではあった。この格好で渋谷のスクランブル交差点にでも放り出されたらたまったもんじゃない。とはいえ、どうしたものか。
人助けをすればいいのか。
なんて、思ってから地団太を踏んだ。ふざけるな。
と、そこで俺は名案を思いついた。父には悪いが、ハサミでこのスーツを切らせてもらおう。
実家住まいを続けているはずの地元の友人何人かの顔を思い出し、俺は颯爽と駆けだした。
駆けだして、五分も経っていなかった。
道の真ん中で、小さなおばあさんが倒れていた。
「大丈夫ですか?」
思わず声をかけ、顔を上げたおばあさんが俺の姿を見て目を丸くして、自分の格好を思い出した。逃げ出したい。が、倒れているおばあさんを見捨てるわけにはいかないし。
転んで足を挫いてしまったというおばあさんを俺はおぶり、家まで届けてあげることにした。
おばあさんの家はすぐ近くだった。娘さんご夫妻が、あらあらまぁまぁと俺を迎えてくれた。
「なんてお礼を言ったらいいのか……」
「いえ、ただの通りすがりのヒーローなんで」
それでは、と俺は再び駆けだした。自分でヒーローなんて言ってしまったことが恥ずかしかったが、まぁよし。
道行く人が、俺の姿を見て目を丸くする。女子高生には笑われた。あぁもうくそ、どうせ俺だ