中食論
華麗なる論文執筆に熱中していたら、はや午後一時ではないか。
さすがに昨夜から何も食べず書き続けていたから空腹だ。
頭を使えば腹が減る。
ことに馴れないフランス語で執筆していたからい
っそう腹が減るのだ。
日、英、仏、それからラテン語。
斯く言えば偉ぶるようであるが、実際、古今四カ国語の資料を駆使し、最新の食文化美術論を語れるのは世界中でも私だけである。
なるほど私の属する学会の規模は大きくないし、ノーベル賞を取るような研究とは方向性が異なる。
が、それでもこの分野における第一人者は私であり、世界人類が何と言っても、私は深く研究せずにはいられない。
誰のためになる、彼のためになるというのではない。
研究は研究のためにこそ続けられるものなのであり、もはや私はやめることは許されない境遇に至っているのだ。まったく、我が学究心の高さはこの私でさえ、敬服せざるをえない。
「食堂へ行かずばなるまい。空腹なれば」
と研究室を出て、廊下の奥、エレベーターを待つ。
「廊下は静寂にして陰気なり。しかれどもこれこそ学問の場なれ」
幕末期の漢文随筆を読み込んでいたこともあり、呟きがどこか漢文調になるのも仕方あるまい。
チン。
エレベーターに乗り、最上階へ。
私学ということもあり、我が大学の職員食堂は贅美である。
本部高層タワーの最上階にあって眺望は抜群で、週末ともなれば、学会や国際会議、種々のパーティが開催されるし、食事の質も、世界中の学食の中で最上位の部類に入る。
シェフ(調理師、栄養士などと呼びたくない)は、以前は一流ホテルで働いていた頑固者で、食材選び、出汁の取り方、食器、調度、すべてにこだわりを持って務めていることを、私は知っている。
無論それは、世界的な食文化美術研究者である私がいればこそであろう。
時計を見れば一時十分。
「この時間なれば」
教員食堂もすいているだろう。
雰囲気良く、味もすぐれているため、十二時直後は、教員食堂もなかなか混雑する。
豚生姜焼き。
タイ風カレー。
鮭西京焼き。
いくらの海鮮丼。
麻婆豆腐の土鍋飯。
こうした、一流シェフの手によるAセットメニュが、わずか780円で食せるのであるから、混雑もしかたあるまい。大学教員の多くは、貧乏なのである。
むろん私はそのような安物ではなく、1500円の職員B定食を選ぶのが常だ。
1500円でも、破格である。
岐阜より仕入れる国産キャビア、京都の松茸、スペイン産生ハムといった高級食材が使われた贅沢なもので、日々、シェフが食材選びから楽しんでいることを思わせてくれる。
たとえば豚は鹿児島の黒豚。
タイ風カレーには、粉ではない本物のココナッツミルク。
鮭、いくらは無論北海道産。
牛は、信州の黒牛。
そのほか米は新潟、味噌は愛知、野菜は栃木・群馬の契約農家から毎朝届けられているから、味は折り紙付きだ。
「今日は、国産牛のビーフシチュにしようかな」
と決めてエレベータを降りて、足が止まる。
準備中。
電気が消えており、人気も無い。
「はて、準備中とはこれ如何に。まさかもう閉店か」
と我が左手首なるスマートウォッチを見て、愕然とした。
「しまった、今日は土曜日だ!」
何ということだ。
論文執筆に熱中して、曜日感覚を完全に失していた。
土曜日に教員食堂が通常営業しているはずがないではないか。
食品サンプルの美しいビーフ・ステーキに、いっそう悔しさを覚えつつ、
「仕方がない、外へ行こう」
土曜日にも地下の学食は開いているが、これは独立採算の薄利多売の小店舗。
この私が、カレーライス200円、ラーメン180円というような、得体の知れぬ、食い物かさえ分からぬようなものを食えるはずがない。そんなものを、食文化美術研究者たる私は食べてはならないのだ。
チン。
誰も利用しないエレベータは最上階に止ったまま。
すぐに下へ降りると、地下から安物のカレー臭が漂ってくる。
「何と凶悪な臭気か」
スパイスは、味わいに関係無く人の空腹中枢を刺激する。
キムチ鍋などという、何らの洗練さも無いような代物であっても、その臭気は人の鼻腔を刺激し、空腹招くのだ。
「嫌だ、私は絶対に食べない」
無意識に腹を撫でていたことを恥じつつ、勢いよくドアを開けて外へでて、キャンパス内を歩き出す。
第一食堂、休み。
第三食堂、休み。
売店、休み。
喫茶室、休み。
銀行ATM、営業中。
「金はあれども店はなし。うどんにパスタ・ナポリタン。カレーに牛丼、キムチ鍋」
夜明け頃に、何百という古川柳や都々逸を読んでいたから、次々と妙な節回しが口から出てくる。
研究熱心なのも困ったものだ。
さて我が大学は閑静な住宅街の中にあり、学外へ出ても食事場所は案外、少ない。
歩くにつれ、いよいよ健康的に空腹感が増してくるが、
喫茶チョモランマ。
ここはダメだ。
抹茶クリームスパや、プリンピザなどというすさまじいものを提供する場所だ。
調子に乗った学生を罠にかけるようなところへ、どうして私が足を向けることはできない。
スーパーあおい。
惣菜コーナーに山盛りの弁当、コロッケ、メンチカツ、蟹クリームコロッケ。
また、無数の菓子パン、カップ麺。
「フフ、馬鹿な」
想起しただけで笑いがこぼれてくる。
そんなものを私が口にできるわけがないではないか。
市販弁当の米、野菜に産地偽装が横行しているとは、私ならずとも知っている。
ああ、そこの買物を終えて出てくる主婦よ。そのエコバッグの中の惣菜類を、たまには自分でつくったらどうかね。家庭でつくれば、味加減は無論のこと、己が何を食しているか、どのように作るのかを把握できるのだぞ。
早足で町を行く。
行先は決っていた。
この先の、「町のダイニング・たんぽぽ屋」である。
ここの手作りハンバーグはなかなか食える。
国産牛を使用。
デミグラスソースも無論手作りで、キャベツも毎日千切りしている。
店主が年寄りで、時々火加減を誤ってハンバーグを焦がしすぎることが難点だが、じっくりコトコト煮込んだコーンポタージュの味は格別であり、大学近辺で、私がうまいと思うのはここだけなのである。
早くも、黒光りする古い木の扉が見えてきた。
折しも、チャラチャラした若い男女が、ここうまいんだぜ、とか言いながら店へ入ろうとしている。
「馬鹿な。おまえなどに、真のうまさが分るものか」
ハンバーグなら油脂分が多ければうまいと感じるような低級な舌の持主は、せいぜいガストへ行って、冷凍ハンバーグを賞味していれば良いのだ。
嘲笑しつつ、若造の後に続いて入ろうとして、
ぐぎゅぎゅぎゅぐるぐるぐる!
すさまじき音が腹から漏れ出た。
びっくりして顔を起こした瞬間、振り返ったチャラ男と目が合ったから、
「いや、違う」
何が違うというのか。
驚愕に焦燥した私は混乱し、男が別に私の腹の音で振り返ったわけではないことに気づくまで数瞬を要したが、
(いや、しかし)
仮に聞こえていたとすれば、という仮定に、名状しがたい屈辱感を覚えた。
「あの大学教授、よっぽど腹を空かせていたんだぜ。かわいそうに」
かわいそうに!
何をいうか、無礼者め。
なぜこの私が、あんな若造に同情されなければならないのだ。
世の中を甘く見るのもたいがいにしろ。
いや、幻聴だろうか。
男はそんな言葉など吐いていない。
私は激昂したことを悔やみつつ、
「私は別に、腹など減っていないのだ」
敢然ときびすを巡らせると、勢いをつけて駅前まで歩くことに決めた。
そもそもあんな若造と同じタイミングで店に入り、しかもこのままでは若造より後で飯を食べ始めることになるのだから、この店にこだわるべきではないのだ。
「仕方が無い。スターバクスだ」
駅前に、瀟洒なスターバクスがある。
コーヒーの味は普通であるが、ガラス張りの店内、なかなか居心地が良く、美人バリスタも感じが良いので、私は時折MacBookを持ち込み、論文執筆をすることもあるのだ。
食物の質は落ちるが、この際目をつぶるしか無い。
(この空腹感では、マスカルポーネと生ハムのサンドや、焼いたハムとチーズのクロックムッシュの二、三個も食べねば収まるまいて)
そんなことを思いつつ、ショウ・ケースを物色していたら、
「あ、こんにちは、先生。午後のコーヒーですか?」
いきなり声をかけられた。
見れば顔なじみの美人バリスタである。彼女は、私が大学教員であることを知っており、尊敬の念を向けてくれている。
「先生、今日は新作のプチ・ショコラがあるんですよ。いかがですか」
「プチ・ショコラとは?」
「ええ。ちっちゃいですけど、おいしいんです。ほら、先生が前本で書いてらした、チョコは宝石である。高くとも美味でなければならない、っていうのを思い出して、それで試しに仕入れてみたんです。おいしいですよ」
「あ、そう」
「ご注文は、何にしますか」
「ショートのドリップコーヒーと、プチ・ショコラ」
……。
嗚呼、午後の日差し。
静かな店内。
香り高きコーヒーをすすり、指につまめる小さなチョコを、一口。
「どうですか、先生?」
美人バリスタ、素敵な笑顔で近づいてくる。
何なのだ、おまえは。
暇なのか。こちらは腹が鳴り出すのではないかと、気が気でない。
「プチ・ショコラ、どうですか?」
「うん、悪くないね」
「本当ですか、良かったです」
「コーヒーとよく合うようだ」
「ありがとうございます」
笑顔が憎い。
チョコ1粒、コーヒー1杯。
空腹中枢はいよいよ刺激され、目眩がするようになる。
そして三十分。
「ありがとうございました、行ってらっしゃい、先生」
の声を背中に受け、よろよろと外へ出れば、もう三時だ。
何をしているのだ、私は。
学生のいない土曜日の駅前は相変らず静かで、
「ああ、腹減った」
と、このときの私には、もはや見栄も外聞も無かった。
とにかく何かを食いたい一心になっていた。
目を転ずれば目の前に牛丼屋の強烈な色彩が飛び込んでくる。
はためくのぼりに、
「キムチカレーマヨ牛丼・新登場!」
「にんにく醤油のこってりマヨネーズ焼肉丼」
「スパイシーチキングリル南蛮焼キムチカレー定食・大盛無料中!」
ああ、何と言うことだ。
普段であれば、あんなものには、軽蔑と憐憫しか浮かばぬだろう。
何か分からぬようなものを加工し、舌の味蕾を破壊するような味を付けた、ゲテモノ。
人の食べるべきものではないと蔑み、怒りさえ覚えるようなものを、私は今、
「うまそうだ」
と感じている。
空腹とはそれほどのものなのか。
無論、知識として、空腹が何にも勝るスパイスであるということは承知していた。
空腹時のまずいものなし、とはこのことを言うのだろう。
「しかし、これほどとは」
屈辱に顔がゆがんでいるのが分かる。
しかし、食わずにはいられない。
牛丼の凶悪な臭気が鼻を殴りつける。
「くそッ、くそッ、くそッ!」
怒りに震えつつ、牛丼屋の前に立つ。
ガラス戸の「押して下さい」へ手を伸ばしかけた瞬間だった。
「あ、先生」
掃除中のバイト店員が、ドアを開けた。
見覚えがあるなと思っていたら、何ということだ、私のゼミの学生ではないか。
「あ、喜多福君」
「食事ですか? まさか先生でもこんなところで食べるんですか?」
「いや、君の姿が見えたものだから」
「あ、済みません」
喜多福はまじめな学生で、私の教えを忠実に守っているから、すなおに頭を下げて、
「次のバイトが決ったらすぐに辞めようと思ってるんですが、なかなか見つからなくて」
「うむ、そうか」
私は腹をさすりながら、
「私のゼミ生がこんなところで働いているのはよろしくない。食文化研究の一環として、こういった底辺飲食業界を見るのも悪くはないが、入り浸るのはよろしくない」
「はい、分かっています、先生。次は、高級料亭で働くつもりです」
「うむ、よろしい」
ふたたび腹が鳴りそうだったから急いでその場を離れる。
信号待ちで振り返ると、喜多福は律儀にまだ見送っている。
早く戻れ。
バイト店長に叱られるぞ。
手を振って、彼の姿が見えなくなると、私はもう大学へと駆けだしていた。
「もうダメだ。地下食堂だ。あそこしかない。学生がいても構わない。大盛りだ。大盛りを食べるのだ」
カレーライス 200円。
醤油ラーメン 180円。
玉子丼 180円。
コロッケ定食 280円。
野菜炒め定食 280円。
「おおお!」
スーパーのジャンクフードの誘惑を振り切り、喫茶チョモランマのゲテモノ料理の手招きを蹴り飛ばし、全速力で大学本部棟、止まるの惜しさにエレベータではなく階段で一気に駆け下りれば、
第二食堂 営業時間十五時まで。
カレー臭だけを残して、そこはもぬけのからだった。