箸先のメテオラ
布施さんはいつもの朝に、また良い匂いを漂わせて僕の元へや
ってきた。
正直、僕はもう少し暖かなダウンジャケットの山に包まれて眠っていたかったが、僕の鼻腔へと漂着したその香りは一瞬で僕の意識を現実世界へと呼び戻してしまった。
「……朝から牛肉ッスか?」
口の端にこびりついた涎の跡をこすりながら僕が起き上がると、布施さんは人のよい顔を更に崩した。
「匂いで分かるの、木内くん? これ国産のA5サーロイン」
プラスチックの包材からは厚切り肉が放つ湯気がもうもうと立っている。僕は布施さんに断りもなく手を伸すと肉の真ん中の一切れをつまみ上げ、口の中へと放り込んだ。
「……あー真ん中とっちゃうのね、遠慮なく」
恨みっぽい事をぼやきながら布施さんも一切れつまんでしゃぶりついた。
僕の口の中のサーロインは芳醇な香りを放ちながら僕に一時の幸福を齎していた。ああ、なんて幸せ。噛めば噛むほど柔らかく、解けてゆくような食感。この時ばかりは僕達の境遇すらどこかに吹っ飛んでしまっている。未練たらたらでA5サーロインを喉の底へと追いやっているうち、布施さんの姿は消えていた。
「ねえ、布施さん。陣原くんはー?」
まだ近くにいるのだろうと大声を上げた。
「たぶん鮮魚コーナーだよ」
布施さんの声は思いのほか近くから聴こえた。どうやら、ワゴンから手頃なパンツを探しているようだった。
「じゃ、僕ちょっと行ってきます」
僕は裾の長いダウンジャケットを一枚選んで肩にひっかけていた。
「はい。いってらっしゃい」
まるで息子を見送る父親のような顔で布施さんが手を振った。
つい三日ほどまえ、季節外れの暴風雪が僕らの町へとやってきた。その被害は甚大で、町はすぐに都市機能をマヒさせ、ちょうど現代詩サークルの会合の帰りだった僕達五人は命からがら、このスーパーマーケットに避難していた。
携帯もネットも繋がらず、途方に暮れてはいたが、常時ポジティブ思考の布施さんをはじめサークルのメンバーは意外にもこの境遇を受け入れていた。
サークルのうちでは若手に入る陣原くんはやはり鮮魚コーナーにいた。僕は冷凍ケースの隙間から厨房に入ると陣原くんの背後へと回りこんだ。陣原くんの横顔は削ったみたいに痩せているが、避難生活に入ってから逆に太ったようにも思える。
「どうも」
挨拶だけはしたが、僕へはまったく目もくれずに陣原くんは出刃包丁を研いでいる。
「まさか、これで僕を――」
そこまで僕が言うと陣原くんはいやに真面目くさった顔で、
「ええ、実はそろそろ木内さんには死んで頂こうかと思いまして」
そう言って、御免! と包丁を突き出した。
当然ながら、ただの冗談だ。陣原くんは突き出した包丁をおもむろに引っ込めると再び砥石に乗せた。ここにもう一人、戸田さんや江頭くんが居ると少しは笑えるのだが、僕と陣原くんではどうにも盛り上がらない。
「で、今から何するの?」
厨房の奥には業務用の巨大な冷蔵庫がメタリックに輝いていた。ここは鮮魚コーナーだから無論、魚しか置いていない。
「そろそろマグロに手をつけようかと思いまして」
さっきと同じトーンで陣原くんは言った。
「ほう……」
食う専門で、料理など何もできない僕はただそう言うしかできなかった。つい昨日聞いたばかりだが、陣原くんは父親の趣味が釣りとかで幼い頃から魚の捌き方を学んだのだという。
「――ほう。これはついにマグロカツ登場ですね!」
江頭くんが足音を消して僕達に忍び寄っていたのは薄々知っていたので僕は驚かなかった。
「いや、カツはどうかと思うけど」
そう冷ややかに答えたのは陣原くんだ。そういえば彼が肉や油物が苦手だった事を僕は思い出していた。
「なんで? マグロカツとか最高じゃん!」
相変わらずテンションの変動が読めない江頭くんは仰々しく体をクネクネ揺らす。
「カツなんて豚肉とか鶏肉とかで作ればいいじゃない。なんでわざわざマグロを揚げなきゃいけないのか僕には理解できないんだけど」
「そこは『考えるな、感じろ!』でしょうが!」
「意味がわかんない」
陣原くんと江頭くんが押し問答をやっているうちに、隣の惣菜コーナーからなんとも良い香りが漂ってきた。僕は二人をそのままにして惣菜コーナーへと移動した。
冷凍庫から取り出したマグロがどうなるのか興味が尽きない所ではあったが、今現在鼻腔を擽る香りには負ける。
惣菜コーナーでは避難した五人の中で紅一点の戸田さんが深鍋で野菜を煮込んでいた。戸田さんがエプロン姿で料理に勤しむ姿を見るなど始めての事なので僕は少しぽーっとした。
「戸田さんは何作ってんの?」
「あ、木内さん。丁度いいとこに来た」
僕の感動など無視して戸田さんは僕をパシリに使った。オーダーはコンソメの素とベイリーフだ。
「カートはそこに置いてるから、よろしく」
まるで最初から誰かをパシリにする予定だったかのように彼女はしれっとそう頼んだ。
ここはスーパーだ、パシリ上等、と僕はカートを全力で押して疾走した。途中で衣料品コーナーから戻ってきた布施さんを見かけたが、声などかけなかった。僕は戸田さんの作る深鍋の行方が気がかりだった。さっきまで陣原くんのマグロの運命を気にしていたが我ながら浮気者だと笑いが出てくる。
なんて楽しいんだろう、この三日間。もう雪など解けなきゃいいのに、と酷い事を考える。僕は布施さんが皆に隠れて家族と連絡を取っているのを知っている。携帯もネットももう復旧しているのに、まだ僕達は救助も呼ばずにこうしている。