記憶屋
記憶売ります。
そんな看板を表に掲げているおかしなお店でわたしは働いていた。都会の地下の一室、このお店には従業員を含めて三名までしか入ることが許されていない。案内係のわたし、お客様、そして記憶を売
っているわたしの雇い主。
大学を卒業したのに就職ができずにいたわたしは、ひょんなことからここで働くことになった。今も目の前で記憶が売られているのを立ってみている。タキシードを着ての案内係だ。
つくづくおかしなお店だと思うけれどしかたがない。お給料ももらえるし、食事もつくってくれる。詐欺ではないことはじぶんで確かめたので、ここで働くしかないのだ。
「どのような記憶をお望みでしょうか」雇い主が話す。
彼女はわたしよりもいくらか年上で、だけどわたしよりは元のできがよく美人である。やっていることのあやしさからか、それとももって生まれたあやしさなのか妖艶で商売にあった雰囲気をかもしだしている。名前は知らない。この部屋には多くて三人までしか入らず、ルールとしてお客様の名前を聞くこともない。そしてお客様がいなければ誰が誰に話しているのかがわかる。つまり、この空間で名前を呼ぶ必要がないのだ。もっとも雇い主の彼女にわたしは名前を握られているのだけど。
ここでは便宜上雇い主をミストレスと呼ぶことにしよう。
「わたしが今までがんばってきたという記憶がほしいんです」
お客さまである女性がテーブルをはさんで向かいに座るミストレスに泣きつくようにしてせまった。
彼女はこれからも大変な目に合うらしい。だから、それを乗り越える誇りとして、努力の記憶を欲しているのだ。これだけがんばったのだから、きっとやれる、と自らを奮い立たせるために。
「それが嘘の記憶でも問題はありませんか?」
ミストレスの言葉にお客様は一瞬驚いてから、うなずいた。
「では両手をテーブルの上に出し、組んでください」
お客様は言われるがまま手を祈るように握り、置いた。
そしてその手を包むようにミストレスが両手をお客様の手の上に置いた。お客様はわずかに体をふるわせる。
「目を閉じてください。ゆっくりと息をしてください。なにも考えなくてもいいですし、なにかを考えてもかまいません」
わたしは少しだけ笑いそうになる。そして息を飲んだ。
「結構です」
ミストレスが手を離した。
「帰って寝ましょう。起きたときには記憶が望むように上書きされています。そしてここに来たことも忘れて、あなたは偽りの記憶を真実として生きることになります」
それだけ言って微笑むとミストレスは黙ってしまった。
「お代頂けますでしょうか」
「……あ、あの」
ほんとうにそうなったのか明らかに疑っている。当然だろう。今はなにも変化が起きていない。せめて何か光を発するぐらいすればいいのにと思うけど、そういったこともない。漫画だったら、地味過ぎて設定変更を求められるだろう。
「もしここに来たこと覚えているままでしたら、明日にでもお金を取りにいらしてください。そのときはお返し致します」
お客様はそれでも疑っている表情で、だけど仕方がないとばかりにお金を出して帰って行った。これで今日の仕事は終わり。
ミストレスの能力は本物だ。
少なくともわたしはそう信じているし、お金を取り返しに来たお客もいない。いったいなんでこんな不可思議な能力を持っているのかはわからない。だけど、仕方がないから、わたしはここでアシスタントとして働き続けているのだ。
それに楽しくないわけでもない。
こんな人間が近くにいたのなら、いろいろもっと知りたくもなるものだ。
§
「どのような記憶をお望みでしょうか」
ミストレスが、中年の男性のお客様を相手にしていた。お客様が言うには、過去の犯罪の記憶を消して欲しいとのことだった。もう二十年以上も昔の話。警察に捕まることもなく、時効を迎え、だけど歳をとって罪の念だけが膨れているとのことだった。
わたしはいつもどおりの表情で、そばに立って業務に徹していたが、それでも内心の驚きは隠せなかった。こんな人のよさそうなおじさんが、人を殺したことがあるだなんて。
ミストレスに対する懺悔のような言葉が続く。
恋人を奪われた怒りで、恋人と奪った男を殺したのだという。なかなか手の込んだトリックで、ついに警察を騙し通したとのことだった。
男が最後まで話し終えたのか泣き崩れた。
言葉を発さずに、黙って話を聞いていたミストレスは、そんな男を見下すように確認するといつものように手をテーブルの上に出すように言った。
「それが嘘の記憶でも問題はありませんか?」
男は顔をあげ、力強く首を縦にふった。
あとはもう簡単である。ミストレスの能力により、記憶を書き換える種が男の中に与えられて、一晩寝れば生まれ変わるというわけだ。偽りの真実として生きるように。
男が帰っていった後で、わたしはミストレスと紅茶を飲んでいた。雰囲気からするとすごい高そうだが、コンビニで買ってきた午後ティーをカップに移してレンジでチンしただけである。煎れてすらいない。
「どんな記憶を与えたのですか?」
「警察に捕まって、刑に服し、そして出所した記憶。あの人はそれを望んでいた」
「周りとの整合性は大丈夫ですか?」
いつもながらにそこが心配になる。出所したという話を周りにしてしまえば、そこに齟齬が生まれるのでは、と思えた。
「捕まらなかったことで、罪の意識を終えるための儀式があの人にはなかった。捕まって罪を償った記憶があれば、その記憶も事件の記憶もすぐに忘れていく。あのお客さんは忘れるための記憶を買いに来たというわけ。だいたいそうだけどね」
ミストレスが紅茶を飲み干した。
わたしはそんな彼女を見つめていた。
明日でこの仕事が最後だったから。
§
「では、明日からお願いします」新しくやってきた人に言葉をかけた。
「厳密には、今日からですね」新しい案内係はわたしとは違うほがらかな笑顔で言った。
どうしてこんなに明るそうな人がここで働くことになったのだろうか、と思う。だけどそんな考えはすぐにやめた。事情なんて、おもてに出やすい人もいれば、じっと隠して明るくふるまう人だっている、といろいろなお客様を見てきてわかった。
わたしは、いつもお客様がいたはずの席に座っている。目の前にはミストレス。普段、わたしが立っていた場所には新しいアシスタントが今までわたしが着ていたタキシードを着て立っていた。彼女は今日からわたしの代わりに働くのだ。引き継ぎなんて存在しない。働くための記憶はミストレスが書き換えてしまうのだから。
わたしもそうしてここで仕事をしてきて、今日、去って行く。
記憶を書き換えられて。
今日のお客はわたしなのだ。
わたしはわたしが抱え込んでいた辛い記憶を書き換えてもらうことを条件にここで働いていた。そして期日が来たので、今、こうして、ミストレスの前に座っている。
ミストレスの小さく息を吸い込むのがわかった。
彼女はきっとこう言うだろう。
「どのような記憶をお望みでしょうか」