ポップコーン・レッド
朝、眠い目を擦りテレビをつけるとまたいつもの報道だ
った。
それはまったく突然の事だった。
時や場所に関わりなく次々と人間が爆死する不可解な事件が日本を襲った。警察は特別捜査本部を置き、管轄の境を越えた捜査網を展開したが、この爆死事件が何者かの殺意によるものか或いは事故かの判断すら付かないという状況に国民の不満ははちきれんばかりだった。
テレビは警察の捜査状況に次いでショッキングな映像を浮かび上がらせる。僕は目を伏せたものの、いつものように映像へと視線を寄せる。
被害者と思われる人物のようだった。当然モザイクで隠してあるものの事件現場の跡は凄惨なものだった。赤黒い血の痕跡がべったりと残るアスファルトが爆発当時の無残な様子を想像させる。週刊誌による報道では、爆死した遺体はポップコーンのようだった、という。当初こ言葉の意味する所を僕は理解できなかった。
――この比喩が正しいという事を僕がまさに目の前で味わったのは2日ほど前の事だ。
出勤途中、僕が駅構内から外に出る際、たしかに悲鳴を聞いた。鼓膜を破らんばかりの物凄い悲鳴だった。
『やめて、やめて!』
そう聞こえた。改札口へ振り返ると若い会社員と思われる女性が自分の体を両腕で抱きながら床へ倒れこむ。駅員や連れと思わる男性が近寄ると、その女性は
『分かったから、本当にもう分かったから!』
そう叫んだあと、破裂した。肉と皮がひっくり返ったようなその様子は、まさにポップコーンだった。赤黒い血と灰色で艶やかな脳、ピンクの臓器にまみれたポップコーン。
事件は続いた。もう日本中で何人もの人間が爆死している。原因も『犯人』と呼べる存在さえも不確かなまま事件は繰り返されてゆく。
「それでも社会がちゃんと回り続けてるってのは、まるで奇跡だな」
そう、誰かが言った。
僕は今日も同じ駅で降りる。改札口の向こうは綺麗に掃除されて、血の一滴も落ちていない。まるでそこでは誰も死にませんでしたと言わんばかりに、街は素知らぬ顔をしている。
『分かったから、本当にもう分かったから!』
あの女性はそう言っていた。記憶は時間を経るごとに曖昧になってゆくが、彼女が残した言葉は僕の胸に刻みついていた。
――あの人は何が『分かった』んだろう。
時々その事を真剣に考えるが、そんな事、僕の理解など及ぶはずがない。
その日もテレビはやかましく爆死事件を報道する。
警察の記者会見の生中継や遺族のコメントが流される。少しずつ僕自身も慣れてゆくのを感じる。当たり前になってゆく気がするのだ。すぐにも僕が爆発するかもしれないのに。
同居する弟は気楽なもので、そんなテレビ報道など気にも留めずに毎日けだるげに高校へゆく。皆がこうして鈍麻されていってしまう事を恐ろしく感じる。僕の方がおかしいのだろうか。それとも単純に僕達はあの女性のように『分かって』ていないだけなのだろうか。赤黒くポップコーンみたいに爆発するほど恐ろしい何かが僕達の背後にいる。
弟の僕は聞いてみたくなった。事件について、或いは僕達が『分かって』いない事について。
「――分かってる事なんてあるの?」
彼の答えはシンプルで僕を唸らせるものだった。弟も弟なりに悩みがあるのかもしれない。
次の日の日曜日、いつもより早く起きた僕は慌ただしく閉ざされるドアの音を聞いた。きっと弟だ。
昨日の弟の言葉に少しの心配を持った僕は弟の跡をつける事にした。いつ爆発してもおかしくないのならば、いっそう弟が気になる。
さいわい弟の通学は歩きなので尾行も楽だ。着替えを済ませて弟の姿を追ったが、余裕で追いついた。弟の通学路は往来の激しい中学校のグランドや大型家電店に面していて、弟はまっすぐに歩いている。僕は気づかれぬように歩く。
――ノイズが鼓膜を刺激した。どこかで聞き覚えのある音調だ。これは一体何だったか。その音は少しずつ私の記憶を裏返してゆく。
「分かった!分かったから!」
音は明確に声となった。あの爆死事件の被害者が発した言葉だ。まさかまた僕がそれを聞くのか。声の発生源を探すと『それ』は弟のすぐ近くで展開していた。ポップコーンのように。弟は裏返った『それ』が目に入らないように通りすぎてゆく。がふがふと血が溢れて歩道はすぐに血に染まった。弟はその血を一歩だけ踏んだが、省みる事はない。
僕は呆然と尾行を続けた。弟が通るたびにポップコーンは咲く。弟の近く、あるいは遥か遠くで。偶然だ、と僕は思った。犯人は弟なわけがない。考えてもみろ、事件は日本各地で起こっているのだ。弟はここ半年この町から離れた事もない、犯人じゃない。そもそも犯人がいるとも分かっていないのだ。
だが弟が一歩踏みしめるたびに人がポップコーンになってゆく。なぜ? そして、僕はどうして爆発しないんだ。
弟はとうとう高校にたどり着いた。僕は殆ど意識を失いそうになりながら彼の背中を追った。もう弟は僕の尾行に気づいている。
高校のグラウンドで待っていたのは何気ないサッカー部の練習風景だった。ジャージーの着替えた弟はグランドを走っている。弟がグラウンドに入ってからポップコーンは一度として弾けなかった。どうしてかは分からない。『分かる』人は大抵弾けてしまった後なのかもしれない。さっきからしきりに手足が震えている。弟の心の振動が伝わっているからなのか。だが、そうならば、どうして僕はポップコーンにならないんだ。
僕は『分かって』いる。こうして、今『分かった』。なのに僕は弾け飛ばない。赤黒いポップコーンにはならない。なぜだ!
弟が激しく息を切らしながら呆然と突っ立っている僕の元へ走ってくる。呼吸を整えようと鼻で息を大きく吸い込むと弟は言った。
「兄ちゃんには分からないよ。僕たちの振動は」
振動は伝わっている。伝わっているんだよ。
僕はそう声に出そうとして、出せなかった。分かっているなら僕は弾け飛ばなきゃいけないのだ。
僕はそのまま家に帰ると少しだけ、眠った。そしてまたテレビをつけると爆死事件の報道を見る。日本の各地、世界の各地で心やさしい『分かる』人たちは赤いポップコーンになっている。そのニュースを聞く。
僕は分からない。
終