スラップスティック
目の前に薄暗い光景が広がる。全身が熱くなり、動悸が始まる。寝過ごした。あわててホー
ムに降りる。うすら寒い夜風が襟首から忍び込む。ホームには乗客の姿がまばらに残っていた。JR高松駅、と表示された看板が天井から下がっている。
岡山での職場の歓送迎会は午後九時に終わった。退職するイワイさんとイイノさんの周りで連休の予定について話を合わせて、ボスのノヤマ課長の長広舌に頷いていた。見慣れない三人の新人が時折、見つからないつもりで嫌そうな顔でスマートフォンに目を遣っている。下らないことをしていると思っているのだろう。俺もそうだった。下らなさを感じられる立場ではなくなっていることに気づくのは三週間もあれば十分だ。同期のニイハラが例によって思い知らせるだろう。わざと笑顔で話しかけると相好を崩した。かすかな余裕を感じる、いつも通りの会だった。
お開きになって、駅に向かって足を速めながら電話した。
「今、終わった。電車に乗ったらワンコールするから早島駅に迎えに来てくれ。」
電話の向こうでノリコが、わかった、と答える。五歳年下で、もう二年の付き合いになる。市内の病院で医療事務をしている。今日はスポーツジムの予定もなく、アパートで過ごしているはずだった。
「車で行くね。ちょっと早島公園に行こうよ。夜桜がきれいだから。」
わかった、と答えておいた。そのころには酔いもいくぶんかは醒めているだろう。ノリコの要求に応えながらも、アパートに寄るだけの体力は回復しているはずだ。
岡山駅の階段を駆け上がり、改札を抜けた。ホームへの陸橋を渡って入線していたマリンライナーに乗った。車内は満席で、つり革も埋まっていた。ポールを摑んでノリコへのワンコールをして、目を瞑る。立ったままなら寝過ごすことはまずない。のしかかる身体の重みを腕に受けながら、発車のベルを確かに聞いていた。
それがなぜ、終点まで眠ってしまったのだろう。JR瀬戸大橋線はその名の通り瀬戸大橋を渡って岡山と香川をつないでいる。瀬戸内海を渡って隣県に着いてしまった。ホームの反対側には「岡山行」の表示のある車両が止まっている。足を引きずって乗り込む。生暖かい車内にはいくつか空席がある。その一つに腰を下ろし、コートの内側のガラケーを探る。着信が4件入っていた。迷った末に、メールを打つ。
〈ゴメン!寝過ごして今、高松。上りに乗った〉
送信して、窓に凭れる。後頭部が冷たい。ガラケーが振動する。
〈びっくりしたー。わかった、時刻調べて、早島にいるね〉
文字列を見た瞬間、力が抜けた。涙が出そうになった。週末の夜に車での送迎を頼まれても文句ひとつ言わないノリコが急に愛おしくなった。早島駅前で車を止めて、降りてこない俺を待ちながらどれだけ不安だったか。とんでもないひどいことをした。もし俺なら逆上して罵倒メールを送信後、とっとと帰宅しているだろう。九月の誕生日には指輪を贈ろう、そう決めた。暖かいものがこみ上げる中、ガラケーを胸のポケットに入れた。
そこまでは憶えている。
今、向かいの窓からは岡山駅のホームが見えていた。乗り込んでくる乗客はいない。このまま回送電車になるのだろう。コートの中でスーツが着崩れていた。立ち上がり、ホームに降りる。時刻は11時を回っていた。酔客の一団が目の前を通過する。また寝過ごしてしまった。耳の奥で鼓動が響く。見開いた目の表面が痛む。ホームの電光掲示板を見る。先発のマリンライナーは目の前だ。開いたドアから乗客が溢れそうになっている。迷わず突進して、煙草臭いトレンチコートと整髪料の臭気の中に割り込む。胸元のガラケーに手をやったものの、さすがにフケの浮いた見知らぬ男の耳元で電話はできない。せめてメールを、と思ったが、右手はポケットから取り出した角度のまま胸に押し付けられている。発車のベルが鳴った。右手の親指で発信履歴を呼び出し、最新をクリックする。コールサインが1回、鳴ったところで切った。察してほしい。無理な話だが察してほしい。ガラケーをポケットに落としたところでドアが閉まり、密集した乗客が大きく揺れた。額がパイプに押し当てられる。そのまま目を瞑った。15分ほどで着く。それまで額の痛みを意識し続ければいい。
なぜ、窓越しの駅名表示は高松駅なのだろう。なぜ、俺は四人掛けシートに横たわっているのだろう。通路には誰もいない。ホームに駆け下りても、鼻先に冷ややかな風が吹くだけだ。
――岡山行、最終電車です。
アナウンスが聞こえる。目の前のマリンライナーに駆け込む。空席に目もくれず、吊革を二つ握って歯を食いしばる。右上の親知らずが痛む。絶対に眠らない。何があっても。
〈今高松。ごめん。いくらでも罵倒してくれ〉
メールをする。そして目を見開いて車内掲示を睨み付ける。
うとうとしたことは認める。
――早島ー、早島ー。
車内放送を確かに聞いた。閉まりかけたドアから外に出る。背後で笛の音とともにマリンライナーが動き始めた。見慣れたホームが今夜は別物に見える。ひどく長く、そして明るく見えた。ベンチも心なしか色鮮やかだった。天井から下がった駅名表示を見る。
「児島」
改札を出た。ロータリーにはタクシーの姿もない。よろけながらバス停のところまで歩く。終バスはとっくの昔に出ていた。ノリコにはもう言い訳もできない。ベンチに倒れこむ。背中が痛い。ガラケーを取り出す。
〈今夜はごめん。もう帰って〉
手を放すとガラケーは舗面に落ちた。寝てばかりいたのに、全身が疲れ切っている。ここで寝て、風邪をひこうが熱を出そうが俺のせいだ。自業自得だ。馬鹿な俺には当然の報いだ。一人で凍えてしまえばいい。春の夜とはいっても冷え込むはずだ。そう思って目を閉じる。情けないことに眠気はすぐに押し寄せてきた。何もわからない。背中の痛みが不意に遠ざかり、意識は闇の中に吸い込まれていった。
身体が揺すられる。こめかみが痛い。目を開けると、遠くに駅の照明が見えた。頬に触れる指先は暖かかった。警察官か、それとも駅員か。親父狩りにしては丁寧だ、とぼんやり思う。
「起きた。よかった」
目の焦点が少しずつ合ってくる。信じられない顔がそこにあった。そこにいたのはノリコだった。背中に手を当てて、ゆっくりと起こす。
「早島のホームで、マリンライナーの車内を見たんだ。いなかった。メールの届いた時刻を見て、もしかしたら児島かな、って。」
夜気は冷たかったけれど、ノリコの身体は暖かかった。涙が出てきた。ノリコがこぶしで額を軽く叩く。目の下を指で拭いながら、ノリコは言った。
「お客さん、終点ですよ」
俺は、ちいさく頷いた。
(了)