幽霊アカウント
「では、こちらのアカウントを抹消いたします。よろしいですね?」
「ああ、いいから早くや
ってくれ」
「では……」
生来、お役所仕事ってやつは俺の肌には全く合わねぇんだが、これで最後だと思えば気も楽だった。
世界的な人口爆発とともに、すべての市民に固有のアカウントが割り当てられるようになって二十数年。非合法に位置情報を収集されたり、買い物の履歴を盗み見られたりといったプライバシー侵害型の犯罪に巻き込まれたときや、逆によからぬ輩が悪事を企んだりするときに注目されるようになったのが、アカウントの抹消による一時的な市民権の放棄だった。
アカウントを抹消されると法律上は死人と同じ扱いになり、法的な義務だけでなく保護も失われるため、すべてを自分で解決していかなければならなくなる。犯罪の温床として警戒もされるから、表だって手を差し伸べてくれるようなやつはいない。アカウントを削除した時点で、犯罪者になったように白い目が迎えられるだけなのだ。
そういう、生きながら死者のようになったアウトローな人間たちは、だいたいが追跡困難になり、アングラに潜って生活することになる。一生、もしくは何らかの方法で新しいアカウントが得られるまでの間、通称「幽霊屋敷」と呼ばれるアカウント抹消者たちの巣窟に集うこととなるのが関の山ってわけだ。
「ご愁傷様です。よい来世を」
感情のない声だ。こいつらは俺たちが別のアカウントを手に入れるまで人間として扱う義務がないもんだから、それこそ幽霊のように精気も真心もない態度で送り出す。――来世? 俺たちが再び人間扱いされる日なんて、あるかどうかも分からない「来世」と同じってことだろう。
俺は、いくつか当たりをつけていた「幽霊屋敷」への仲介者に早速連絡をとった。市民を勤め上げた年数に応じて“退職金”が出るもんだから、それに群がりビジネスに勤しむ市民様も多いのだ。
「……おう、さっき死んできたからよ。例の件、頼むぜ。ああ、じゃ……」
プチッ……と切った携帯電話も、やっこさんから前もって渡されていたものだ。自分名義のものは、もうこの世には何ひとつない。俺は、束の間の開放感をとっくに忘れ去り、これから去来する未知の生活への茫漠たる不安と必死に戦い始めていた。
そもそも俺は、これから向かう「幽霊屋敷」ってやつの正体も知らされちゃいない。一説によるとただのマグロ漁船じゃないかって噂まであるくらいだが、この、情報がすべてを支配するご時世に正体が知れないってのが只事じゃないもんだから、実際に厄介になるまでは触れないでおこうと普通の人間なら敬遠するのが当然だったんだ。……だが、ついに逃げられない状況になっちまった。やはり地下施設かどこかに、文字通り潜ることになるのだと思う。俺は正に、この世を名残惜しむ死出への旅人のような心持ちで、役所の外を見渡した。
ス……とその時、見慣れた前籠をつけた自転車が通り過ぎて行った。子どもを乗せているようにも見えたのは錯覚に違いない。反射的に顔を逸らしてしまっていたから、本当のところは分からないが……。
「麗華……」
俺は、おそらくこれが今生の別れになるであろう女の名前を呟いた。……やはり、隣町程度ではダメだった。この手続きを決行するのなら見知らぬ土地のほうがもっと思い切りよく旅立てた。仲介人の言っていたとおりということか。
「お待たせしました」
振り向くと、今度は過剰なまでの笑顔が俺を待ち構えていた。
<続く>