記憶喪失になった俺が大学受験に挑むのだ
気がついた時、ハクいスケが俺の顔を覗き込んでいた。「ハクい」とは「可愛い」、「スケ」は「女子」とでも置き換えてくれればいいだろう。遠い昔、親父が子供の頃に読んでいた漫画で使われていた表現だ。俺はその漫画を一度しか読んだことがないのだが、主人公の女子大生たちが学園祭で模擬店「セー
ラー服喫茶『幽霊屋敷』」を運営し、思いがけない売れ行きで大金をつかむ、という内容だった。主人公の山崎あかねは弁護士を目指す法学部の一年生、その仲間である……。おっと、いけない。話が脱線したようだ。「ハクいスケ」の話に戻さなくっちゃ。
「よかった、気づいたのね。お兄ちゃん」とスケが言う。
「お兄ちゃん? 何を言っているんだ、スケさん」
「お兄ちゃん、私がわからないの? まあ、しょうがないか。おっかさん、じゃなくて、お母さん呼んでくるね」とスケは俺に言い、「スケさんなんて呼ぶから、調子狂っちゃう」などとつぶやきながら、部屋を出て行った。
あの口調、確かに俺の妹である由樹美に似てなくもないが、そもそもあんな顔だったっけ? それにどう見たって、高校生。俺より年上じゃないか。いや、そもそも俺はなんでこんな病院みたいな部屋で横になっているのだろう?
「よかった、真一。ようやく意識が回復したのね」と部屋に入るや否や、母が泣きながら俺に駆け寄ってくる。真一は俺の名前だし、目の前にいるのは間違いなく俺の母親だ。俺は何だか安心した。
「意識が回復って、俺、寝てたの? どれくらい?」
「交通事故にあって三日間、意識が戻らなかったのよ。お医者さんは『必ず回復する』って約束してくれたんだけど、お母さんは心配で、心配で……」
「たった三日?」
俺にはもっと時間が経っているような気がするのだが、気のせいだろうか。ふと、部屋の中を見回しカレンダを探してみる。カレンダは窓側にある棚の上、テレビの横にあり、そこには「2014年」と書かれてある。
「母さん」と俺は言った「3年経ってないか?」
「えっ?」
「俺、確か高校受験で必死に勉強していて……。あっ、その制服!」
俺は妹によく似たスケさんの着ていた制服を指差した。
「俺が行きたかった本町高校の制服じゃないか」
「お兄ちゃん……」さっきまで冷静だったスケさんが、今では母親以上に取り乱している。
ここで俺は自分の頭を整理してみた。どうやら俺は事故に遭い、三日間意識を失っていた。しかし、俺自身には3年間経過したとしか思えない。もし、スケさんが妹の由樹美だとすれば、二つ違いで中一だった彼女は、現在高一になっているはずだ。
「なあ、由樹美。俺って本町高校の三年生か?」
「何言ってるの、当たり前じゃない!」
「大学とか、目指してる?」
「うん」
「志望校ってわかる?」
「阪大医学部」
「嘘だ!」
「嘘じゃないよ。あんなに必死に勉強してたじゃない」
信じられない。本町高校に入学するのに必死だった俺が、今では阪大の、しかも医学部を目指しているだなんて……。
いや、しかし。
その時、俺の頭の中には電車が耳元で走るかのような轟音が鳴り響き、これまで勉強してきた内容が怒涛のようにイメージとして繰り出されてきたのであった。中学レベルではない、微分積分やアルカリ土類金属、コンデンサの並列式などの内容が、くっきりと脳のあちこちに刻み込まれるかのように。
今まで一度しか目にしたことがない漫画の内容までもが、鮮明に思い出される。とにかく、書籍状のもの、文字や数式で書かれた記憶のすべてが、きっちり脳に収まっている感じなのである。
「怪我の功名」とは、まさにこのことだ。俺はこの言葉を、小学館の学習雑誌の付録「なぜなに慣用句」で読んで覚えたのだ。そう、そこまで容易に思い出されるのであった。
自分がどんな高校生活を送っていたのかも、どんな事故に遭ったのかも思い出せない。この三年間に考えたこと、感じたことの一切が自分の記憶の中にはない。しかし、自分が読んだ本、勉強した中身だけは確実に思い出すことが可能だった。
これならいける! 阪大医学部なら、余裕で突破できるはずだ。
退院した俺はろくに学校にも行かず、自宅で勉強を続けた。学んだ内容は面白いように頭の中に入っていく。試しに新聞や電話帳を覚えようとしても、これまたするすると記憶できるのだ。
そんなある日、家にお見舞いの同級生が訪れた。聞けば俺の彼女らしく、同じ学校とあって学年の違う妹ともよく遊んでいたとのこと。
「元気な顔を見れてよかった」と彼女は言う。
こちらとしては、それがどうした、って感じなのだが。
「受験、頑張ってね。きっと合格するよ」
当たり前じゃないか。
「合格したら、またUSJに遊びに行こうね!」
知るか、そんなもん。
彼女が帰った後も、俺はひたすら勉強を続けた。
そして、受験の日が訪れた。共通テストの自己採点もばっちりで、もう合格は十中八九手にしてようなものである、何しろ、俺は大学で使われる数学の教科書もマスターしていたし、英単語だって電子辞書並みに覚えている。
二日目、最後の試験は英語だった。
俺は問題にざっと目を通し、勝利を確信した。こんなのは楽勝だ。しかし、どうしたことだろう。この期に及んで俺は解答用紙に書くべき自分の名前を忘れてしまったのだ。受験票には「真一」とあるが、はたしてこれは自分の名前なのだろうか。
焦りながらも俺は問題だけは解いていった。取り立てて難しいとも思えない。これまで模試や問題集でやってきたのと同じレベルの内容だ。大丈夫、俺は絶対合格できる。だけど、俺の名前は何だ? 真一でいいのか。答案用紙の名前欄に、真一とさえ書けば、俺は合格できるのか。
その時、ふと俺は誰かの声を聞いたような気がした。
「真一」とその声は俺の名を呼ぶ。そんなお前は誰なのだ? 「真一」と、同じ声が、今度ははしゃいだような口調で言う。「真一、合格したら……」。そうだ、この声はあの子の声だ!
俺は名前の欄に「真一」と書き込んだ。もう二度と戻らない、楽しかった高校での日々を思い出しながら。