集合住宅
高速道路で奇妙な老人に出会い、世にも不思議な経験をしてから一
ヶ月後。仕事から帰ってポストの中身をあらためると、投資信託のDMとピザのチラシに、青色の星形の紙が挟まっているのを見つけた。
以前とは-高速道路の路肩に止めた車の助手席に置き去りにされた白い星形の紙を見つけた時とは-うって変わった、落ち着いた気持ちで僕はそれを読んだ。
『来週日曜日、日が沈む頃に××駅の前。迎えに行きます。』
筆跡は万年筆で手書きで書かれたもののようで、駅という漢字が少し潰れていた。
僕は青い星形の手紙に指定された日、××駅前のロータリーへ向かった。そこは僕の家の最寄り駅から鈍行列車で五駅ほど郊外に出た土地にあり、そういった町にはよくあるように、駅前はロータリーになっていて、その中央には一握りの花壇と芝生があった。
あの老人を見つけるのにわけはなかった。彼は車に乗っていた。とてもよく目立つ水色のクーパだ。他にロータリーに停車していたのは黒塗りのタクシーと、おそらく老人介護施設から来た白いワゴンの送迎バスだけだった。
僕が車の脇に立ってから老人がこちらに気づくまで少しかかった。老人は駅の出入口とは反対側、ロータリー中央の芝生をやたらと熱心に眺めていたから。あるはずみに大きく嘆息し、額に浮き出た汗を拭い(彼の車には西日がよく当たっていた)それからようやく僕に気づいて、助手席側の扉を開けてくれた。
「車は賭けの抵当にとられたんじゃなかったんですか」僕は尋ねた。
「あれはセダンだった。これは違う」彼は言った。「人助けをして、その見返りに車をもらった。セダンほど乗り心地は良くないが、ないよりはずっといい」
助手席に僕が乗り込むと、老人は静かに車を発進させた。旧型の車にしてはその動作はゆるやかで、すでに彼がこの車を相当乗り込んだことをうかがわせた。
「先ほどは何を見ていたんです」
「モニュメントさ」老人は顎をしゃくってみせた。
ロータリーを滑り出る車から後方を振り返って、僕はなんとか、芝生の中央にそびえ立つ銀色のピカピカ光る巨大な彫刻を視界の隅におさめた。それが何を表象しているのかまではわからなかったし、きっとわからないままでいいのだろう。
「良い作品なのですか」僕は尋ねた。
「良いか悪いかは知ったこっちゃない。気に入るか、気に入らないかだ。」老人は言った。彼は片手でハンドルを操作していた。
「それで一体、これから何処に行かれるんです?」
「手紙に書いただろう」老人は真正面を見据えたままだった。「幽霊屋敷さ、我々のね」
我々の車は大通りを突き当りまで進み、うねうねと複雑に入り組んだ横道に入り込み、犬の散歩をする人しか通らないような小路を抜けて、川沿いにあるマンションの駐車場にすべり込んだ。しめて20分くらいだっただろうか。老人はクーパを降りると自分の手でサイドミラーをたたみ、それから鍵を取り出して玄関の錠を外した。ここにはインターホンやロック式自動扉はないようだった。
「ご自宅ですか」二人入れば満員のエレベーターに乗りながら僕は聞いた。
「私のではないがね」老人の答えはこうだった。
電気式上昇箱は5階でとまり、我々は灰色の廊下をつきあたりまで歩いた。老人が立ち止まった家先は、暖色系のドアも鉄格子のはめられた窓も、ひとつのこらず通り過ぎてきた部屋と変わりはなかった。けれど静まり返った廊下のうつろな壁をふるわせる、かすかな人声が漏れ出てきた。
老人はチャイムを鳴らした。
<どうぞ>おそらく中から、ざらざらとした返答が聞こえた。
老人は今度は鍵もなしにドアノブを回した。開けてみると、ドアの小口にクッションがついていて、暖色系のドアは音もなくするすると開いた。中は暗く、奥に何があるかは見通せなかった。
彼はどうぞともお入りとも言わずに中に入った。僕も彼の後に従った。
狭い廊下の先には2つ3つの扉があり、行き止まった先、一般的なマンションならばリビングがあるであろう部屋に、見事なバーカウンターがしつらえられていた。
部屋はほぼ黒塗りで、天井からささやかな光沢を投げかけるオーナメントがいくつも吊るされている。ミラーボールのような派手な照明はなく、ごく普通の蛍光灯が、オーナメントたちに光を投げかけていた。カウンターは黒のタイル張りで、一部の欠けもはみだしもなく、見事な精密さで並んでいた。カウンターの中にはいかにもバーテンダーという服装、つまり黒い薄地のチョッキと蝶ネクタイをつけた男性がひとりいた。他にもカウンターには客がいた気がするが、なぜかそちらにはあまり注意が向かなかった。
「いらっしゃいませ」バーテンダーが言った。声質から、ついさっきチャイムに答えた声と同じとわかった。
「友人を連れてきたよ」老人が言って、さっそくカウンターに座を占めた。
「ようこそ、『幽霊屋敷』へ」バーテンダーはそう言って、老人の隣の席を僕に進めた。長い指ときれいな爪の持主だった。
「当店は前払い制になっております」
座るなり、バーテンダーはそう告げた。めんくらって言い返せない僕をよそ目に、老人はジャケットのポケットから(高速道路で着ていたものと同じだ)札束をひとつかみ取り出した。バーテンダーも眉一つ動かさず(眉も綺麗に整えられている)札束を手に取り、すばやく枚数を数えた。その手つきはいかにも大金をあつかいなれているといったものだった。そして老人が取り出し、バーテンダーが数えている紙幣は、僕がこれまで一度も目にしたことがないものだった。
「結構です」彼は言った。「どうぞ、お好きなものをお申し付けください」
「ジャマイカ・クーラー」老人は即座に言った。「コーヒー多めだ」
「帰りも運転されるのでしょう」僕は口を挟んだ。
「前にも言ったじゃないか、俺はきちんと実験してある」老人は平然と言う。「ジャマイカ・クーラーをコーヒー多めで2杯飲む。その後缶詰のオレンジと、栓を抜いたばかりのサイダーを混ぜ、一瓶分飲み干す。これで捕まったことはない」
そう言っている横から、バーテンダーがカクテルを持ってきた。小さなグラスの上には、星形のレモンの皮がのっている。
「何になさいますか」バーテンダーは今度は僕に眼差しをむけ、注文を促した。僕は何も気の利いたことが思いつかず、ただウィスキーを頼んだ。
僕と老人はしばらく、黙ってそれぞれの酒を味わった。老人はあっという間に一杯目のカクテルを飲み干し、二杯目が差し出されると、今度は少しづつ口にした。まるで本当に、一度口をつけるごとに一滴しか舌に載せていないかのようだった。
「そろそろ説明してくれませんか」僕は半分飲み干したウィスキーを脇におしやり、老人に言った。
「そうだねえ」老人はまた一滴、カクテルを口に含んだ。「何から聞きたい?」
「ここは本当に幽霊屋敷なんですか?」
「そうだとも。我々は幽霊のようなものだから。もちろんあんたは違う。ここの敷居をまたいだらお陀仏になったとか、そんなことはないから安心してほしい。だが、我々は幽霊のようなもの。亡霊、幽鬼、陽炎、まあなんでもいい」
「幽霊が車を乗り回すんでしょうか」
「まぜっかえすんじゃないよ。今日君が乗ったクーパに実体があったように、我々はちゃあんと身体を持っている。足だってはえている」彼は片手の拳で軽く膝を叩いた(紺のコールテン地のズボンだ)。「だけど我々は人間ではない。ここまではいいかな?」
「それは、もう」
「いいことだ。物分かりがいいと、人生はよりよいものにできる。それはともかく、では我々は何者かと言われると、そうだな、星から落ちてきたもの、と表現してみようか」
「宇宙人?」
「違うさ。そしてここでもう一段階。我々は生命の幽霊じゃない。星の幽霊だ」
「星の幽霊?」
「そう」
「では、超新星爆発で吹き飛ばされてきた?」
「いやいや。我々のふるさとはまだ存在している、ありがたいことに。その証拠は空にある。星々から降り注ぐ光が見えているかぎりね。星はとても遠い。君たちの尺度では測りきれないほど遠い。そんな遠くから、この地上に降ってくるものは?」
「放射線?」
「勘弁してくれたまえ。先ほど、ヒントを出したのに…」
「光?」
「その通りだ。やはり君なら理解すると思っ