不信感
晩御飯の後、夜間の寺子屋へ向かおうと用意をしていた安吉に丁稚仲間が声を掛けた。
「安松、お前、呼ばれてるで」
顔を上げると、階段口から先輩分である手代の顔がひ
ょいと覗いた。
「安松、お前に客人や。すぐ降りてこい」
こんな自分に誰だろうといぶかりつつも、「へぇ」と返事を返して急いで狭い階段を駆け下りる。
土間にいたのは、同じ長屋に住んでいた彦太の父親であった。彦太とはいつも遊ぶ中であったが、朝は早く帰りはいつも遅い左官職人である彦太の父親とはほとんど話したことがなく、安吉は戸惑いながらも頭を下げた。
彦太の父親と話していた番頭が振り返る。四角いその顔に、気遣うような色が浮かんでいることに安吉は気付いた。
「来たか、安松。ええか、気を落ち着けて聞くんやで。お前のお袋さんが怪我をしたらしい。材木問屋の前を通っとる時に、木材が倒れてきてその下敷きになったんやて。近くにおった人らが戸板に乗せて運んでくれはったらしいねんけど、どうもあんまりええことないらしい。このお人は同じ長屋のお方やろ? わざわざ知らせに来てくれはったんや」
安吉はすっと血が引くのを感じた。息を詰めながら、沈鬱な表情の彦太の父親の顔を見上げる。彦太の父親は小さく顎を引いて頷いた。
安吉の肩に手をおきながら、番頭は言った。
「旦さんは寄合で出てはるけど、わてからちゃんと言うといたるから今夜は家に帰ったらええ」
声も出ぬままに、安吉は番頭に向かって深々と頭を下げた。
提灯の灯りに照らされながら、安吉と彦太の父親は夜道を急いだ。長屋に辿り着いた時には四ツ時を少し回っていたが、安吉の家には数人がいるようであった。
「千五郎はん、安坊が帰ってきたで」
近所の女房の声に出迎えられて、安吉は押し出されるようにして家の中に入った。奥の板間に母親は寝かされており、その傍に父親の千五郎と医師らしき男が腰を下ろしていた。
母親は薄い布団に寝かされて、目を閉じている。
「お、お父ちゃん、お母ちゃんは……」
震える声で言った安吉に、父親の代わりに医師が答えた。
「心配ない。ちょっと胸を強う打っただけや。二、三日横になってたら大丈夫やろ」
唖然としながら父親の顔を見ると、困ったように微笑みながら父親も頷く。
「……ちょっと、うろたえてもうたわ。悪いな、お前まで帰ってきてもろて。芳次郎はんも、わざわざ呼びに行ってもろてすんまへんでした」
安吉の後ろに立っていた彦太の父親を振り返ると、小さく微笑みながら頷き、手を上げて出て行った。
「す、すんまへんでした。ありがとうさんどした」
安吉も彦太の父親の背中に頭を下げた。と、戸口から彦太がひょいと顔を覗かせる。
「おかえり、安ちゃん。おばちゃん、たいしたことあらへんかって、良かったな」
ようやく安吉はほっとして、彦太に笑いかける。心配して集まってきていた長屋の連中たちも、皆、笑みを浮かべて自分の店に戻っていった。
外に出た安吉は、それらの人々に頭を下げて見送った。
安堵した途端に、安吉は先日からの懸念を思い出した。例の幽霊屋敷での一件である。
「お父ちゃん、ちょっと外に出てるわ。お母ちゃんが起きたら呼んでもろてええかな」
頷くのを見届けて、彦太の肩を抱いて歩き出す。どぶ板の上を通って奥の井戸へと向かう。
「彦太、ちょっとええか。聞きたいことあるんやけど、最近、辰兄の様子、どないや?」
真っ先におみよの様子を聞きたいところであるが、彦太相手に気恥ずかしい感じがして、安吉はあえて辰兄のことを尋ねた。彦太は首を傾げる。
「なんや最近は忙しいみたいで、ここにもあんまり戻ってへんみたいやな。うちのお母ちゃんが賭場にでも入り浸ってんちゃうかて言うてたけど」
「賭場……」
暗がりの中で、安吉は彦太の顔を見つめる。安吉より二つ年下だけで、そろそろ奉公話が持ち上がる頃であろうが、彦太はその辺りの七歳より幼く感じられる。安吉は辛坊強く尋ねた。
「わては、ここを出て行く時に言うたな? 辰兄に気をつけろて。おみよを頼むて。幽霊屋敷での事件を忘れたわけやないやろ?」
叱られたと思ったのか、彦太の声に拗ねるような響きが混じった。
「そやかて、わいもいろいろ忙しいし。そや、おみよ言うたら、この間、辰兄と話しとったで。何や、辰兄が熱心に色々言うとったみたいやった」
「あほか、お前は、わてはそれを言うとんじゃ。何を話しとってん」
むっとしたように黙り込んだ彦太に、安吉は声を潜めて言葉を続ける。
「あんな、ついこの前、偶然辰兄に会うたんじゃ。そのとき辰兄は近々、大金が手に入る当てが出来たと言うてた。幽霊屋敷での人さらいの中に辰兄がおったんやないかとわては思てる。お前、どう思う?」
「そんなん分かれへん、言うてるやろ。あん時かて逃げることに必死で後ろを振り返ることなんかできんかったし。……でも、辰兄がおったとは思えんのや。たまに顔合わせることあるけど、そんな風な感じないし。ふらふらしてるけど、前と変わらん感じで話し掛けてくれてる」
「お前なんかあしらうのわけないさかいな」
「安ちゃんは、分かるんか? 辰兄が何考えとるんか。ちょっと奉公出たから言うて偉そうに言うのやめてんか」
とうとう彦太は本気で怒ったらしい。両手をぴんと伸ばして突っかかるように安吉に言った。
「辰兄をそんなに疑うんやったら、会うたときに聞いたらよかったやろ。自分ができへんこと、人に言わんといてんか」
吐き出すように言うと、彦太は安吉を押し退けるようにして走り去った。
安吉は呆然と、その小さな背中を見送ることしか出来なかった。