変な旅
東急バスの横についたこの会社のロゴは、長らく図鑑か写真などでしかみたことがなか
った。特急や電車ではたまにお目に掛かっていたが、都心の郊外に調査で出かける、というシチュエイションは、縁がなければバスの横についているロゴを間近に見る、というのは下手をすれば一生縁がない話ではある。
大学の先生や都内に支部のある営業、もしくは知り合いがいれば違うかもしれないが、30年以上、びうびうと地吹雪を立てて雪の降る10万人都市しか知らなかったヤモメの中年男性、つまり私みたいのがふらりと辿り着くとは思わなかった。
銀色の背景に赤く映える一つ目玉と三つ襟。それが今自分をにらみつけている。その目玉は、きっと強盗慶太の眼鏡の下にあるものに違いない、と文学かぶれのような世迷い言を思いつきながら、かといってそれをつぶやくのも味気なく、そのバスに乗り込んだ。
なんでも東京に自分の親戚がいるらしく、今回は、そこにうちの父の死去を伝えに来た。
「らしく」というのは実のところ、子供の頃に話に「あいつは大金持ちの立派なヤツだ」としか聞かされず、それがどんな顔をし、性別、年齢をしていたかすらとんと検討がつかない。ただ、その時に頭を撫でる手の、なんとも緩やかでやさしいこと、そして同時にどこまでもはるか遠くを眺めていた父の目を今でも覚えている。
父の遺言状らしき端書きには「東京のHのところへ渡してほしい手紙がある」とあり、それを手にした母が「どうしたものだか」というので、なにも考えず「では、渡してきましょう」というと、私の眼をじぃっと見た後、いままでに聞いたこともないような重たいため息をはぁと深くつく。そして電池の切れたようにだらりなった体を、急に忙しく動かしだし、私にいくばくかの路賃を渡し、支度を整えさせ、すっかり追い出す準備を整えた。
「結局、思い出の中に行ってしまったねえ、あの人は」などといった後、「気をつけていってらっしゃい」といって家の奥に引っ込んだので、まあこれで私は出発するしかないのだろう、とおずおずと家を出ることになった。
バスに乗ったのは、その親戚Hからのハガキに従ってのことである。といってもそのハガキの投函されたのは悠に20年以上前。そこに「駅から04系統のバスで、『屋敷前』で降りてください。すぐにわかります。」と書いてあったのを素直になぞっているのだ。電話番号ぐらいあればいいものを、ご丁寧にそれだけはそれまでの書簡の、どこにも載っていなかった。電話帳にも、父のメモにも載っていない。むしろ父も私も、実は母も、だまされているのではかろうかと思ったが仕方がない。
屋敷前、というところに着くと、確かに屋敷が建っている。いやこれほどご丁寧に建っている洋館というか、古いビルというか、というもなかなかない。窓には無骨な鉄格子、大きめの窓は網目の入ったすりガラスで、鉄扉はかつて青色で塗られていたのかもしれないがガリガリと随所に錆が彩っている。まだらな灰色な壁面は、銃弾がばらばらとめり込み、そのままうらぶれた姿でそれはそこに佇んでいた。
「ほう、手紙を封も開けずに持って歩くとは、君もとんだお人好しか、さもなくば馬鹿だね」
突然後ろから声を掛けられた。
「なんで封を切ってないってわかるんです?」
「開ければその封筒は真っ赤に染まるようになっているからさ。ハトロンにおさまらないほどの血糊が溢れだし、それはそれはいい見物になる」
「やな趣向ですね。僕はそういうのは好きじゃない」
「そうかい? 君の父君も、まあそういう真面目な方だった。その真面目さが遺伝するとはちと意外だったな。あの母君から変な仕込みをされているものとすっかり思ったものだから」
といって近づいてきたのは、まだあどけなさが残る、はずの少年だった。もうさっきのセリフを聞いて、あどけなさがどうという油断は捨てるほうが身のためだという警報の鐘がカンカンとなっている。
「まあ、そんなに固くなるなよ。慎重かつ老獪な君の母君を持ってしても、ボクと君の父君の企みのほうが上を行った、ってことさ。だからこそその格好で君を送り出したのだからね。」楽しそうに、私の襟についたバッチを指さす。そういえばなんでこんなバッチをつけているのだろう。
ああ。目の前にいるのは少年だとか、いろいろな矛盾とかを押しのけることにした。間違いない。私はこう尋ねる。
「あなたが、H、さんですね」
「そうだ。直感を信じてそう発言した君の勇気を讃えよう。いいぞ、いいぞ。まさにあい つの子だ。そしてこれから一緒に行動するに文句ない。君はこれからいろいろな目に合う。そしてそれは半分は昔から定めてあったことなのさ。まあ、非難する権利ぐらいくれてやる。ただ、君の喧嘩相手はボクじゃない。もっと恐ろしいモノを相手にするのだよ。」
「二十面相かガリガリ博士か、それとも深淵の神とかいうんじゃないでしょうね?」
「全部さ」
なるほど、これは思い出の中に迷い込んだに違いない。いつから迷い込んだのか、それも探さないと。ひとりつぶやいたつもりであったが、
「賢明だ。もうバスに乗ったあたりではすっかり『こっち側』さ。でもボクは誓う。君は絶対にきちんと返す。だからそれまではボクと一緒にいてほしい」
「そう、簡単に信じると思ってるんですか?」
「信じるさ。君の目は、父君とよく似ているし、かつて、まさにこういう瞬間に、同じセリフを言ってくれた。」
鈍い銀色一色になる冬のあの街より、この世界を歩くほうがよっぽどましなだけではあったが、それを含めて見透かしているのだろうとは思った。
そうしてこのHとの旅を始めることになり、まあ、母さん、まだ当分戻れそうにありませんが、家のことをもう少しよろしくお願いいたします。