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【BNSK】月末品評会 in てきすとぽい season 3
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THE ONE ◆Mulb7NIk.Q氏
 投稿時刻 : 2014.05.30 23:41 最終更新 : 2014.06.03 01:03
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- 2014.06.03 01:03:30
- 2014.05.30 23:41:28
THE ONE ◆Mulb7NIk.Q氏
ほげおちゃん


 二百年といえば途方もない歳月だけれど、政治形態や一つの文化的な潮流が変化を迎えるには適切な時期だ。人類に関していえば、五十年ほどで古い世代は新しい世代にとてかわられる。それが、個人の場合ではどうだろう。
 二十年というのは一人の人間が、二度目の生を受けてから完全に成熟するのに十分な期間だと僕は考えている。
 これから僕が語ろうとしているのはちうど二十年前に故郷を飛び出していた一人の少女の話だ。
 語るべき言葉を探して古い記憶の海へ深く潜ていけば、最初に優しいギターの音色が蘇てくる。幼い僕は暖炉のそばでそれを聞いているが、やがて庭へと駆け出していく。するとそこには、耳を澄まし軽く目をつむている女の子がいる。
 彼女の名はエリナ。僕のたた一人の幼馴染であり、話の中心人物である。
 エリナとは家が隣同士ということもあて、物心つく前から僕たちは遊び仲間だた。そして、記憶の中の一番古いページの中にさえ、後々に彼女を苦しめることになる一つの特徴は発露していた。
 ただ、それについては後回しにして、まずは幼少時に随分と気にかけてくれた彼女の兄について先に語ろうと思う。四六時中ギターを弾いていて、本当の兄弟みたいに接してくれた人。
 エリナ自身に関する記憶とは違て、残念なことだけれど、今では彼の面影を鮮明に思い浮かべることができない。というのも、二つほど理由があた。
 第一に、彼の在りかたがあまりにも人間らしさに欠けていたから、顔貌という分かりやすい形で記憶されなかたのだと思う。しかしながら、不思議な印象を他人の心に残す人間だたというのは間違いじない。まあ、率直に言てしまえば彼は奇人変人という類といえるだろう。なにせ、毎日のように顔を合わせていたにもかかわらず、僕は彼の本名さえ知らないのだ。
「俺のことはルーシーと呼んでくれ」
 それが初対面での第一声だた。
 誤解を生むかもしれないのでここで一つ断わておくけれど、彼はゲイやホモではない。しかし女性名であるルーシーと、周りには呼ばせていた。それから、絶滅危惧種であるヒピーの生き残りだた。花と平和を愛していたし、人柄は危ういくらい底抜けに透明で、十月の芝生みたいにただ優しかた。ギターの名手で、僕にその弾き方を教えてくれたのも彼だた。頭の先から足首までどぷりとビートルズに傾倒していたし(自分をルーシーと呼ばせていたのも多分その線だろう)、同じくらいドラグにも漬かていた。
 幼い僕たちと大きく歳が離れていて、かといて完全な大人でもなくて、とにかく不可解な存在だた。そして同時に憧れの的。その感情は小さな男の子にとて、壁の高い場所に掛かて手の届かない、一丁の猟銃に注がれるものと同質だた。
 ただの隣人である僕でさえ多かれ少なかれ影響を受けたのだ、実の妹であるエリナはそれ以上にルーシーを拠りどころにしていた部分がある。
 そのことを裏付ける事実として、エリナは僕によくギターを弾かせたものだた。
「いくら練習しても私じ上手く演奏できないから」
 そう言て、夕暮れ時になるとよくルーシーの忘れ形見を持ち出してきた。「忘れ形見」、だ。決して間違いない。
 ここで二つ目の理由。単純に、共に過ごした期間が短かかたこと。

 僕たちが十歳を迎えた年の夏、彼は何の前触れもなく失踪した。
 ルーシーが姿を消す直前、エリナは彼とこんな会話を交わしたそうだ。
「どこに行くの、お兄ちん」
「散歩に行くのさ」
「どこまで」
 優しい兄は最後の質問には答えず、かわりににこりと微笑んでギターを肩に担ぎ、口笛を吹きながら朝陽の中に溶けていた。ただ、それだけだた。こんなものが離別の場面だと誰が想像できよう。だけど本当の話なのだ。それ以来ルーシーの消息を聞いた人はいない。
 もしも突飛な空想が許されるとしたら、僕はこう考える。
 ヒピーというのは歴史のムーブメントの中で形成された架空の一族に過ぎないが、彼はあまりにも純然たる形でヒピーを体現していたので、その運動の終焉と共に消えゆく運命だたのだ、と。彼は概念が擬人化されて肉体をもたようなものだた、と。
 多数の人間の意思が一つの方向に流れ、時間とともにまた向きを変える。ムーブメントは社会に対する訴求力を失たときに力を失う。季節が眠りにつくのと同じようなものだ。燦々と降り注ぐ灼熱の陽射しに喘ぐ人間にとて、降りしきる雪の情景はリアリテをもたない。
 ともかく、エリナの兄について語れるのはこのくらいだ。話を彼女に戻そう。
 僕は先に、彼女を苦しめることになる特徴についてほのめかした。それについて語る。彼女がいくら練習してもギターが上手くならなかたことも、この特徴に関連している。
 エリナは幼いときから思うように手足を動かすことができなかた。まるでブリキのネジ巻き人形みたいに、何をするにつけても動作がぎこちないのだ。身体機能に異常があるのではなく、心理的なものだというのが医者の判断だた。だから病名なんてたいそれたものが与えられたわけじない。
 人生の初めの重要な期間を過ごし、いくら腹蔵なく互いのことを話し合う仲だからといても、結局のところ僕たちは他人同士でしかないので彼女の本心をはかり知る術はない。ただエリナの言葉を馬鹿正直に信じるとすれば、「別に気にしてはいない」のだそうだ。
 僕にとてしてみれば、彼女の手足の動きがぎこちないのは、出会た最初の瞬間からそうであたし、共に成長する中でそれは当たり前のものだという認識しかなかた。だけど、エリナのことをよく知らないテンエイジにとてみてはどうだろうか。
 論ずるまでもなく、一人の少女にとて厳しい時期が訪れた。
 十五歳、エリナに対する弾圧が最も苛烈さを極めた年だ。この年代の子供たちに分別を求めるのはいささか難しいものがある。悪意ではなく事実をありのままに話せば、彼女の特徴は意地の悪い子供たちにとて嘲笑の的でしかなかた。彼女が緊張したり、衆目を集めなければならない状況に陥ると、例の特徴はますます際立た。心無いクラスメイト達は、彼女を「ネジ巻き女」と呼んでからかたものだ。物を取り上げて必死に取り返そうとする姿を笑たり、彼女の動きを誇張した形で真似してみたり、そういうことが日常的に行われていた。
 そんな状況の中で僕に何ができただろうか。幼馴染みとして彼女を庇い、容赦のない攻撃の矢面に立て共に戦うというのは、人として、男として、一つの正しいありさまなのかもしれない。だけど、そういうの行為は特別な人物にしか許されていない、歪んだ形の正義なんじないかと思う。だから僕は一人の平凡な少年として、何もしないという選択肢をとた。悪意も好意も向けず、幼馴染として今まで通りに接する。それが僕にできた最大限の思いやりだた。
 積極的に彼女の味方をすることはできなかたけれど、エリナは同年代の子たちに比べてずと大人びていて、僕に助けを求めるようなことはしなかた。むしろ僕が傍観者としての立場をとることが正解であるというふうに賛同している節さえあた。その強さに僕はどれほど救われたことだろうか。だけど、誰かが抑圧されるような環境にあては、遅かれ早かれ決定的な瞬間は訪れるものだ。
 ある夏の日曜日、僕はエリナの家を訪れた。昼どきにもかかわらず、彼女の母親は強烈な酒の匂いを発しながらカウチで泥みたいに眠ていた。父親は戦争で夭折していて、女しかいないその家はいつも香水と砂糖菓子とアルコールの混ざた、陶酔するような甘い香りが漂ていた。放ておけば、トーストかコーンフレークしか食べないだろうから、僕は自家製のサンドウチを手土産にしていた。彼女の家庭は決して裕福というわけではないけれど、貧窮しているわけでもない。若く綺麗な母親は大枚と引き換えに多くの男と寝ることを生業にしていて、身につけているものは全て上質だた。娘に与えるものも、同様に洗練されていた。少なくとも物質的な意味合いにおいては。
 放埓という言葉がこれほどまでに似合う人物を僕は他に目にしたことがないし、これから関わることも恐らくないだろう。そして、エリナはこの美しい母親に複雑な感情を抱いていた。
 サンドウチを齧りながらしばしばうそぶいたものだ。
 アイツは私みたいな半端ものしか産めないし、主食はパンケーキで水分といえばアルコールかガムシロプで摂取している。憎らしいくらい砂糖漬けのくせに、あれだもん。妬けるね。だけど女として死ぬのも時間の問題でし
 狭い世界しか知らない子供自分の僕にできることといえば、そうだね、とエリナの肩を持てやることぐらいだた。
 そして午後になり陽射しが和らいできたので、僕たちはルーシーのギターを担いで近所の川まで歩いて行た。そこで、偶然のいたずらにしては少しばかり悪質なのだけれど、エリナをいじめていた五人の少年グループにばたりと遭遇してしまたのだ。
「よう、おまえギターなんて弾けたのか」
 相対するなり、リーダーの少年がそう言た。
「まあね」
 面倒なことになたなと思いながら、僕は気の抜けた返事をした。エリナは黙込んで、おずおずと一歩下がる。
「一曲やてみてくれよ」
「オーケイ」
 そして、幾度となく繰り返して指が覚えているビートルズのイエスタデイを軽く披露した。
「なんだそれ。ちと俺にも貸してみろよ」
 優しいけれど虚無的な調べは彼の気に召さなかたらしく、ルーシーのギターは奪い取られてしまた。楽器は次々と少年たちの手を渡ていくが、彼らの誰一人としてまともに扱えるものはいなかた。きちんと調律された六本の弦は滅茶苦茶に掻き鳴らされて、悲痛なうめき声を上げた。そればかりじなく、彼らはネクを掴んで野球バトみたいに振り回した。僕は憤りよりも先にたまらなく悲しい気持ちになり、冷静さを失た。そして取り返しのつかない過ちを犯したのだ。
 やめてくれ、それは彼女の大事なものなんだ。
 彼女の、ものなんだ。
 不良少年たちの目つきが変わる。いかにも狡猾で、貪婪に光る目。僕はなんて愚かなんだろうと後悔した。みすみす相手に攻撃の材料を与えてしまうなんて。
「聞いたか」
「ああ」
「これ、ネジ巻き女のギターなんだてよ。笑えるよな」
「笑えるな」
「どうやて弾くんだよ、なあ。痙攣してるだけで音が出るのか、こんな風に」
 不良のリーダーは大げさに指を震わせながら、弦に触た。そうして不快な音を出しながら、「なあ? こうか、こうか?」とエリナを馬鹿にしながらにじり寄る。
 彼女は地面を見つめ、黙り込んだ。そういう挑発を幾度となく受け、対処する方法を学んでいたからだ。
 エリナが堪えていないとわかると、不良はやり方を変えた。
「そうかそうか。弾けないよな。そりそうだ。じあ、こいつはお前にはちと勿体ない。だから俺がもらていくぜ」
 不良少年たちは僕たちに背を向けて、騒ぎながら立ち去ろうとした。
「待てよ、ねえ。待てよ」
 エリナは覚束ない足取りで、奪われたギターを取り返そうと歩を進めた。彼女が追いつきそうになると、少年たちは足を速めた。エリナはどんどん必死になていた。前のめりになり、転びそうになりながら走ろうとした。それははきりいて無様な姿だた。僕は彼女のすぐ後ろをついていく。荒がる息遣いを間近に聞き、その不如意な身体の中に渦巻く強い感情が目に見えるようだた。前方で沸き起こる笑い声は、エリナの努力に比例して大きくなていく。結局、追走劇は川に架かた橋を渡り、町はずれの丘の上に立つ時計台まで続いた。
 時計台は故郷の町で一番高い建物だ。不良少年たちは古びた錠前を易々と壊して中へ入ていく。
 彼らはルーシーのギターを担いだまま、建物の外周に沿て螺旋状に設えられた階段を上る。僕は時計台の入り口でグループの仲間の二人に組み伏せられて、地上からその様子を窺うことしかできなかた。どんどんと登ていく少年たちに追い縋ろうと、エリナはぎこちない動きで、かなりの遅れをとりながらついていく。まず少年たちが頂上部に到達し、一番身軽なものが足場のない時計台の機関部によじ登て、不安定な場所にギターを据えて戻てくる。しばらくしてようやくエリナが集団に追いついた。そこで何か言葉の応酬があたらしいが、地上まではきりとした声は届いてこない。
 今や遠い場所に行てしまた兄の形見に対して、少女は途方に暮れたように立ち尽くしていた。僕はやめろ、と大声を張たけれど、すぐさま腹に強烈な一撃を見舞われてしまた。少し黙て見ていろ、とでも言いたげな視線と共に。
 緊張が周囲を支配していた。まるで偏執病に冒されたみたいに、押し殺した笑い声のようなものが自分の頭の芯と、耳の外側の二方面から押し寄せてきた。滑らかに駆動し続ける金属の構造体、その静かな拍動。それらに真紅の光沢を与える斜陽。
 エリナが動く。
 僕は再び抵抗を試みるも、努力の甲斐なく地面に沈められた。頂上部では小さな影が足がかりを探していて、それを黙て見ているしかなかた。
 だが、何よりも恐れていた事態はあまりにもあけなく訪れた。 
 エリナが掴んだのは、部品同士の間にあるくぼみでも手すりでもなく、虚空。前のめりになた姿勢は今更どうしようもなく、空中に投げ出される。数秒先の未来がありありと予見されて、痛みさえ伴うほどの戦慄が背筋を走り抜けた。己の目の前で、少女の肉体は十数メートルの高さから落下し、激しく地面に叩きつけられ、まるで冗談みたいに一度大きく跳ね上がり、そして仰向けの状態で動きを止める。全ての音が消え去り、僕は凍りついた。エリナも同じく、凍りついたように身じろぎ一つしない。
 しかし結論から先に言えばエリナは生きていた。そして彼女の中で重大な変化が、全くの別物へ生まれ変わるほどの異化が、始まていた。ここからは少し彼女の言葉を借りようと思う。
 ――落ちていく瞬間、私の中で何かがカチリと音を立てて組みあがた。それは、正確な回転を続ける時計台の歯車から想起されるイメージだた。肉体に対する認識が一変し、まるで堰の水門を開いたかのように大きな奔流が全身をめぐていく。全てが意のまま。四肢に歯車が隙間なく詰まていて、それが回転することで身体が動いているという感覚。私は何をすべきかが手に取るようにわかた。冷静に息を吐き、地に叩きつけられる寸前に脱力する。そして着地の際に自らを跳ね上げることで落下の衝撃を緩和した。受けたのは擦り傷程度で、深刻なダメージが無いのが分かる。右手の親指から小指へと、一本ずつ折り曲げて伸ばす。やはり問題なし。そんな感じ――
 エリナはのちに短い時間の中で起きた出来事を、このように語た。
 少し後、頂上部に上ていた不良少年たちが戸惑いの表情を浮かべながらもゆくりと階段を降りてきた。
「大丈夫か」
 おずおずと彼らのリーダーが尋ねるが、返事はない。彼はエリナに近づき、軽く二、三度頬をはたいた。
「ネジ巻きが壊れちまた。つまんねえの」
 吐き捨てるようにそう言うと、踵を返して彼らは時計台を去ろうとした。
 僕は戒めから解放されて、エリナに歩み寄る。だけど彼女は自分自身の力で立ち上がり、不良少年たちの背中を見つめていた。その姿はもう、おどおどとして他人の顔色を窺いながら生きる少女ではなかた。全身に力がみなぎり、血が走ていた。
「今までのツケを返してもらう時が来たみたい」
「え、なんだい」
「何でもできる気がするの、見てて」
 エリナはニヤリと口元を歪めて、不敵な笑みを浮かべる。熱ぽく生き生きとした視線が、鋭く敵を捉えている。
 またくもて信じられないようなことだが、落下の瞬間以後、彼女は完璧に肉体を支配する術を心得ていた。たとえば五人の少年相手を一度に相手取り、息つく間もなく彼らをぶちのめしてしまうくらいのことは造作なかた。
 二度と妙な気を起こさないようにと、エリナは執拗なくらいに倒れている少年たちを蹴り上げた後、王者のごとく悠然と時計台を上ていく。そして、無傷のギターを手にして僕の前に戻てきた。
「行こう、もうすぐ日が暮れてしまう」
 僕は躊躇いがちに、ああ、と答えて自宅へ続く道を辿ていた。夢を見ているような気分だた。二十年経た今でも、あの日の出来事は夢だたんじないかと時々思うことがある。だけど恐らく現実なのだろう。
 時計台の事件以来、エリナに対するみんなの見方が一変したのは言うまでもない。
 彼女はもう「ネジ巻き」ではないし、湧き上がる自信に満ちていた。女の子に喧嘩で負けたなんて事実は、不良たちにとて耐えがたいことだたろうし、なるべく彼女と関わらないような態度をとるのはごく自然なことだ。誰もが腫物を扱うみたいにエリナと接したけれど、それは多分彼女にとて幸運なことだたのだと思う。エリナは周囲の人間との関係の中で、自分の場所を確立していくタイプではなかたから。
 とりまく環境が変わてしまたことと同様に、彼女自身もまた変わていた。
 人生について模索する時期が不意に訪れたのだ。可能性の扉は堂々と開かれていた。身寄りのない孤児が、ある日突然遠い親戚の莫大な遺産を受け継ぐことになてしまたかのような有様だた。手足を誰よりも自由に動かせる、それはエリナにとて何よりも素晴らしい、天からの贈り物だたことだろう。
 それまで押し殺されていた何かが、開花していく過程を僕は目にした。些細なことから、目を疑うような光景まで。たとえば化粧することを覚えたことだとか。エリナには一人の女として生きていく道もあただろう。その頃になると母親に似て、日増しに美しくなていた。毎日顔を合わせている僕でさえ戸惑いを覚えるくらいに。
 彼女は学校にあまり来なくなた。様々な探究のために一日中町に出てをうろつくことが多くなた。夜になると羽を濡らした蝶のように着飾り、あまりよからぬ噂の絶えない場所にでさえ出入りしていたらしい。非行という単純な言葉で済ませればそれまでだけれど、そんなものではかり知るにはあまりにも特殊な倫理体系の中で動いていた。あの子がただ寂しさを紛らわすという理由だけで、反社会的な行為に手を染めるわけがない。
 無力ではなくなたことの証が欲しかたのか、エリナは母親の庇護下からいち早く抜け出そうと躍起になていた部分があるように思う。やり方はあまりスマートじなかたけれど。たとえば教会の献金皿から小銭をくすねたり、身なりの良い人物に手際よく掏摸を働いたり、夜の酒場でダイスを振たりだとかだ。ただあまりにも勝ちすぎるので、そのうちだれも相手にしなくなたらしいけれど。
 どこで覚えてきたのか、たまに顔を出したかと思えばマリフナのやり方を教えに来たりもした。勿論、ジンキーになていたわけじない。むしろ彼女はいくら魔法の粉をいくらとりこんでも酔えない様子だた。何をしても平然としているので、君は小麦粉でもつかまされたんじないか、と訝しんだこともある。そしてごく少量を煙草に混ぜて僕に吸わせ、結局僕は三日ほど最悪な気分を引きずることになてしまた。
 エリナはやれることがあれば反社会的であろうと慈善行為であろうと、なんでもやて自分を試していたみたいだた。それでも彼女にとて故郷は狭すぎた。彼女、それから彼女の兄、母親、その一族はきと流浪の民の血を引いていたのだろう。自由になたあの日から半年もするころには、旅立ちの予感を身に纏わせていた。
 大きな変貌を遂げつつある彼女に比べて、僕は相変わらずだた。
 ギターを抱えて、川辺で弾く習慣も続けていた。時折、エリナが音もなく近づいてきて傍らに座ていることもある。予想していたことだけれど、楽器を貸せば複雑なコード進行を難なくこなしたし、僕よりも遥かに上手く演奏できた。だけど、こうも言ていた。
「あなたの音が好きなの」
 だから僕は下手だけれど、心を込めてギターを弾いた。そうしていると、涼しい風の中で、母親のことを話してくれた。
 この町を出ていこうと思うんだけど、そのために少しまとまた金が必要なんだ。うちの母親みたいに、男をとかえひかえして貢がせれば簡単なのかもしれないけれど、それは嫌。でもね、派手に動こうと思えばそれだけ気取られる可能性は上がるわけじない。仮にも女同士だし。私は黙て出ていきたいの。だけどダメだたね。なにをしようとしてるのか、アイツに全部お見通しだた。
 そこで彼女は軽く目を瞑たまま苦笑いを漏らす。
 そしてね、親と子として初めて教えてもらたが、上手な嘘のつき方だたの。私たちてどうしようもないよね。
 語られる言葉とは裏腹に、エリナはなんだか嬉しそうでもあた。
 アイツは認めてくれたよ。意外にすんなりとね。そして私がこの町を出ていくときは、必ず知らせる。だからあそこまで見送てほしい。
 彼女が指を差したのは、橋だた。橋の先を真直ぐ歩いていけば、隣の町まで続く道がある。脇に逸れていけば故郷で一番高い丘まで続いていく。僕は二つ返事で了承した。
 だけど、その約束は他愛もないただの嘘だた。エリナもルーシーと同じように僕の前から忽然と姿を消した。しかし、ヒントは充分に貰ていたのだし、それに気がつかない僕が間抜けだたというだけのこと。「上手な嘘のつきかたを母親に教えてもらた」という話の直後だたから、エリナはそれを証明してみたに過ぎない。そうだろう。あるいは、話していたことが一から十まで全て嘘だたということもありえる。今や真実を知る由はない。
 エリナはどのようにして姿を消したか。別に、なんてことはない。ある朝、僕が目覚めて家の外に出ると、ルーシーのギターが玄関先に置いてあた。それだけ。僕たちの別れはそういう具合だた。シンプルでとても彼女らしい。
 以来、僕はギターを大事に預り、折に触れては川岸に立てそいつを弾いた。数日おきに演奏することもあたし、数年の空白期間を設けることもあた。そんなふうにしていくつもの季節を見送ていた。
 そして僕は二十年越しに物語を綴ろうとしている。
 エリナはどこで何をしているのだろう。
 思うに、多くの人は〇(無)から1(全)へ、間断なく経験を積み重ねることによて人間としての完成を目指していくものだ。そうして世界が我々に示してくる無数の現実に対し、正しい、あるいは正しく見える応答の形式を築いていく。
 ある人間の言葉に宿る重みとはすなわち、経験の質量なのだ。
 彼女の場合は長らく虚無だけが内側に存在していた。ままならない世界の中で、すべての事象はほとんど無価値に過ぎなかたのだろう。だけど、歯車が噛みあた日に半分だけ人間になた。ちうど、半分。完全なる肉体への支配を得て、強さと呼べるものは全てを兼ね備えていた。そのかわりに、残りの弱さの部分を兄が持て行てしまた。それは、人の在りかたとしてはとても歪だ。僕は、彼女の人生についてそのように考察する。
 果たして誰が彼女の孤独を理解できたことだろう。何でもできてしまうことに対する焦燥。絶望。弱さは時として生きていくための希望を担うものだ。
 エリナの抱えるそれとは別に、自身の孤独について考える時期もあた。青年期の入り口に立ていた頃、ビートルズの曲を聴きながら僕は考えていた。あらゆる時代の青年たちがそうしてきたように、託された楽器を抱え、朝靄の中によく一人で佇んだものだ。そして手慰みに、リヴプール出身の四人組が、ライブバンドからレコーングバンドへと変遷していく過渡期の曲を、なんとかしてギターの音に落とし込もうと試行錯誤していた。それも懐かしい日々だ。結局、ビートルズに対する僕の試みは成果を上げなかたし、孤独についてろくに考えをまとめることもできなかた。けれど、僕は生きている。そういうものだ。
 二十年というのは、長い。どう足掻いても、長い。子供にとては想像を絶するほどの道のりだ。
 だけどそれは経過してしまた。
 最近、彼女がひこりと帰てくるような気がしてならない。ただの予感にすぎないのだけれど、僕にとてそれはとてもリアルな手触りをしている。
 たとえば、といま僕は空想してみる。ニヨークの喧噪絶えない街角で、あるいはカシミールの山奥で、荘厳な秋の夕暮れの墓場で、ばたりと兄に再会した彼女の姿を。そうして、人間らしさの残り半分を手に入れた一人の女を。彼女は姿を消した時と同様に、ある日突然この町に帰てくるかもしれない。日に日にそんな気がしてくる。
 まあ、運命がどう転がていこうと彼女ならきと上手くやるだろう。そう、信じている。
 これは、君と僕と彼の物語だ。だから、僕は書く。そして今日もまた待ち続けている。


(了)
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