THE ONE ◆Mulb7NIk.Q氏
二百年といえば途方もない歳月だけれど、政治形態や一つの文化的な潮流が変化を迎えるには適切な時期だ。人類に関していえば、五十年ほどで古い世代は新しい世代にと
ってかわられる。それが、個人の場合ではどうだろう。
二十年というのは一人の人間が、二度目の生を受けてから完全に成熟するのに十分な期間だと僕は考えている。
これから僕が語ろうとしているのはちょうど二十年前に故郷を飛び出していった一人の少女の話だ。
語るべき言葉を探して古い記憶の海へ深く潜っていけば、最初に優しいギターの音色が蘇ってくる。幼い僕は暖炉のそばでそれを聞いているが、やがて庭へと駆け出していく。するとそこには、耳を澄まし軽く目をつむっている女の子がいる。
彼女の名はエリナ。僕のたった一人の幼馴染であり、話の中心人物である。
エリナとは家が隣同士ということもあって、物心つく前から僕たちは遊び仲間だった。そして、記憶の中の一番古いページの中にさえ、後々に彼女を苦しめることになる一つの特徴は発露していた。
ただ、それについては後回しにして、まずは幼少時に随分と気にかけてくれた彼女の兄について先に語ろうと思う。四六時中ギターを弾いていて、本当の兄弟みたいに接してくれた人。
エリナ自身に関する記憶とは違って、残念なことだけれど、今では彼の面影を鮮明に思い浮かべることができない。というのも、二つほど理由があった。
第一に、彼の在りかたがあまりにも人間らしさに欠けていたから、顔貌という分かりやすい形で記憶されなかったのだと思う。しかしながら、不思議な印象を他人の心に残す人間だったというのは間違いじゃない。まあ、率直に言ってしまえば彼は奇人変人という類といえるだろう。なにせ、毎日のように顔を合わせていたにもかかわらず、僕は彼の本名さえ知らないのだ。
「俺のことはルーシーと呼んでくれ」
それが初対面での第一声だった。
誤解を生むかもしれないのでここで一つ断わっておくけれど、彼はゲイやホモではない。しかし女性名であるルーシーと、周りには呼ばせていた。それから、絶滅危惧種であるヒッピーの生き残りだった。花と平和を愛していたし、人柄は危ういくらい底抜けに透明で、十月の芝生みたいにただ優しかった。ギターの名手で、僕にその弾き方を教えてくれたのも彼だった。頭の先から足首までどっぷりとビートルズに傾倒していたし(自分をルーシーと呼ばせていたのも多分その線だろう)、同じくらいドラッグにも漬かっていた。
幼い僕たちと大きく歳が離れていて、かといって完全な大人でもなくて、とにかく不可解な存在だった。そして同時に憧れの的。その感情は小さな男の子にとって、壁の高い場所に掛かって手の届かない、一丁の猟銃に注がれるものと同質だった。
ただの隣人である僕でさえ多かれ少なかれ影響を受けたのだ、実の妹であるエリナはそれ以上にルーシーを拠りどころにしていた部
分がある。
そのことを裏付ける事実として、エリナは僕によくギターを弾かせたものだった。
「いくら練習しても私じゃ上手く演奏できないから」
そう言って、夕暮れ時になるとよくルーシーの忘れ形見を持ち出してきた。「忘れ形見」、だ。決して間違っちゃいない。
ここで二つ目の理由。単純に、共に過ごした期間が短かかったこと。
僕たちが十歳を迎えた年の夏、彼は何の前触れもなく失踪した。
ルーシーが姿を消す直前、エリナは彼とこんな会話を交わしたそうだ。
「どこに行くの、お兄ちゃん」
「散歩に行くのさ」
「どこまで」
優しい兄は最後の質問には答えず、かわりににこりと微笑んでギターを肩に担ぎ、口笛を吹きながら朝陽の中に溶けていった。ただ、それだけだった。こんなものが離別の場面だと誰が想像できよう。だけど本当の話なのだ。それ以来ルーシーの消息を聞いた人はいない。
もしも突飛な空想が許されるとしたら、僕はこう考える。
ヒッピーというのは歴史のムーブメントの中で形成された架空の一族に過ぎないが、彼はあまりにも純然たる形でヒッピーを体現していたので、その運動の終焉と共に消えゆく運命だったのだ、と。彼は概念が擬人化されて肉体をもったようなものだった、と。
多数の人間の意思が一つの方向に流れ、時間とともにまた向きを変える。ムーブメントは社会に対する訴求力を失ったときに力を失う。季節が眠りにつくのと同じようなものだ。燦々と降り注ぐ灼熱の陽射しに喘ぐ人間にとって、降りしきる雪の情景はリアリティをもたない。
ともかく、エリナの兄について語れるのはこのくらいだ。話を彼女に戻そう。
僕は先に、彼女を苦しめることになる特徴についてほのめかした。それについて語る。彼女がいくら練習してもギターが上手くならなかったことも、この特徴に関連している。
エリナは幼いときから思うように手足を動かすことができなかった。まるでブリキのネジ巻き人形みたいに、何をするにつけても動作がぎこちないのだ。身体機能に異常があるのではなく、心理的なものだというのが医者の判断だった。だから病名なんてたいそれたものが与えられたわけじゃない。
人生の初めの重要な期間を過ごし、いくら腹蔵なく互いのことを話し合う仲だからといっても、結局のところ僕たちは他人同士でしかないので彼女の本心をはかり知る術はない。ただエリナの言葉を馬鹿正直に信じるとすれば、「別に気にしてはいない」のだそうだ。
僕にとってしてみれば、彼女の手足の動きがぎこちないのは、出会った最初の瞬間からそうであったし、共に成長する中でそれは当たり前のものだという認識しかなかった。だけど、エリナのことをよく知らないティーンエイジャーにとってみてはどうだろうか。
論ずるまでもなく、一人の少女にとって厳しい時期が訪れた。
十五歳、エリナに対する弾圧が最も苛烈さを極めた年だ。この年代の子供たちに分別を求めるのはいささか難しいものがある。悪意ではなく事実をありのままに話せば、彼女の特徴は意地の悪い子供たちにとって嘲笑の的でしかなかった。彼女が緊張したり、衆目を集めなければならない状況に陥ると、例の特徴はますます際立った。心無いクラスメイト達は、彼女を「ネジ巻き女」と呼んでからかったものだ。物を取り上げて必死に取り返そうとする姿を笑ったり、彼女の動きを誇張した形で真似してみたり、そういうことが日常的に行われていた。
そんな状況の中で僕に何ができただろうか。幼馴染みとして彼女を庇い、容赦のない攻撃の矢面に立って共に戦うというのは、人として、男として、一つの正しいありさまなのかもしれない。だけど、そういうの行為は特別な人物にしか許されていない、歪んだ形の正義なんじゃないかと思う。だから僕は一人の平凡な少年として、何もしないという選択肢をとった。悪意も好意も向けず、幼馴染として今まで通りに接する。それが僕にできた最大限の思いやりだった。
積極的に彼女の味方をすることはできなかったけれど、エリナは同年代の子たちに比べてずっと大人びていて、僕に助けを求めるようなことはしなかった。むしろ僕が傍観者としての立場をとることが正解であるというふうに賛同している節さえあった。その強さに僕はどれほど救われたことだろうか。だけど、誰かが抑圧されるような環境にあっては、遅かれ早かれ決定的な瞬間は訪れるものだ。
ある夏の日曜日、僕はエリナの家を訪れた。昼どきにもかかわらず、彼女の母親は強烈な酒の匂いを発しながらカウチで泥みたいに眠っていた。父親は戦争で夭折していて、女しかいないその家はいつも香水と砂糖菓子とアルコールの混ざった、陶酔するような甘い香りが漂っていた。放っておけば、トーストかコーンフレークしか食べないだろうから、僕は自家製のサンドウィッチを手土産にしていた。彼女の家庭は決して裕福というわけではないけれど、貧窮しているわけでもない。若く綺麗な母親は大枚と引き換えに多くの男と寝ることを生業にしていて、身につけているものは全て上質だった。娘に与えるものも、同様に洗練されていた。少なくとも物質的な意味合いにおいては。
放埓という言葉がこれほどまでに似合う人物を僕は他に目にしたことがないし、これから関わることも恐らくないだろう。そして、エリナはこの美しい母親に複雑な感情を抱いていた。
サンドウィッチを齧りながらしばしばうそぶいたものだ。
アイツは私みたいな半端ものしか産めないし、主食はパンケーキで水分といえばアルコールかガムシロップで摂取している。憎らしいくらい砂糖漬けのくせに、あれだもん。妬けるね。だけど女として死ぬのも時間の問題でしょ。
狭い世界しか知らない子供自分の僕にできることといえば、そうだね、とエリナの肩を持ってやることぐらいだった。
そして午後になり陽射しが和らいできたので、僕たちはルーシーのギターを担いで近所の川まで歩いて行った。そこで、偶然のいたずらにしては少しばかり悪質なのだけれど、エリナをいじめていた五人の少年グループにばったりと遭遇してしまったのだ。
「よう、おまえギターなんて弾けたのか」
相対するなり、リーダーの少年がそう言った。
「まあね」
面倒なことになったなと思いながら、僕は気の抜けた返事をした。エリナは黙込んで、おずおずと一歩下がる。
「一曲やってみてくれよ」
「オーケイ」
そして、幾度となく繰り返して指が覚えているビートルズのイエスタデイを軽く披露した。
「なんだそれ。ちょっと俺にも貸してみろよ」
優しいけれど虚無的な調べは彼の気に召さなかったらしく、ルーシーのギターは奪い取られてしまった。楽器は次々と少年たちの手を渡っていくが、彼らの誰一人としてまともに扱えるものはいなかった。きちんと調律された六本の弦は滅茶苦茶に掻き鳴らされて、悲痛なうめき声を上げた。そればかりじゃなく、彼らはネックを掴んで野球バットみたいに振り回した。僕は憤りよりも先にたまらなく悲しい気持ちになり、冷静さを失った。そして取り返しのつかない過ちを犯したのだ。
やめてくれ、それは彼女の大事なものなんだ。
彼女の、ものなんだ。
不良少年たちの目つきが変わる。いかにも狡猾で、貪婪に光る目。僕はなんて愚かなんだろうと後悔した。みすみす相手に攻撃の材料を与えてしまうなんて。
「聞いたか」
「ああ」
「これ、ネジ巻き女のギターなんだってよ。笑えるよな」
「笑えるな」
「どうやっ