ノスタルジックの船よ、沈め ◆S6qZnfmn3/gR氏
ノスタルジ
ックの使者が僕の前に立っていた。ノスタルジックの使者はつい一昨日に僕の家を訪れたばかりだったが、しかし今日も僕の家に用事があるようだった。ノスタルジックの使者は、今日、時間空いてる? と小首を傾げながら僕に問いかけてきた。
「今日は特に用事はないけど」
と、僕は答えた。ノスタルジックの使者は少しはにかみながら、今日はお弁当作って来たから、一緒にピクニックに行こうと言った。僕は頷いた。
草原に着くと、ノスタルジックの使者はバッグから『チョッパー』を取り出し、一緒に『サイコアナルシス』しない? と訊いてきた。サイコアナルシスが何か判らなかったけれど、僕は頷いた。
ノスタルジックの使者はチョッパーの片方を僕に持たせ、それから右手に持った『鳩』をチョッパーで撃った。僕は落ちてきた鳩を、ノスタルジックの使者の方に向けて撃った。鳩は僕の思った方向に飛んではくれなかった。試合をしたけれど、結局『11対6』で僕が負けた。運動はあまり得意ではない。
じゃあ、お弁当食べようか。
ノスタルジックの使者はそう言った。僕は頷いた。
ノスタルジックの使者は、持ってきたバスケットを開いて、中身を広げていった。
私が丹精込めて作った『サルバトリュ』だから、残さず食べてね。僕は目の前の紙皿に載せられたサルバトリュを突いてから、それを箸で割った。サルバトリュはもちろん冷めていたが、肉のうまみが舌に良い味わいを与えていた。僕はノスタルジックの使者を見ながら、美味しいと言った。ノスタルジックの使者は、ワイングラスを手に持ち、その中に指輪を沈めて、僕に手渡した。中に入った物を取り出してみると、それは婚約指輪だった。
「私と、『 』をしてください」
ノスタルジックの使者は、そう言った。
「僕でいいの?」
僕はぼんやりとしながらそう返した。
「ええ、もちろん。ミスター・哀れな仔羊」
「じゃあ、よろしくお願いします」
ノスタルジックの使者は、目に涙を浮かべて、嬉しそうに下を向いた。そして手の甲で目元を拭った。
「じゃあ、早速、家に帰ったらマウンドの上の泥仕合をしなくちゃ」
「別に明日でもいいじゃない」
「だめ! 今日しなきゃ! この気分のままマウンドの上の泥仕合しちゃいたいの!」
僕は満面の笑みで語るノスタルジックの使者に押されるように、頷いたのだった。
『壁がやってきた』と名付けられたこの日から、僕とノスタルジックの使者は、暗い部屋の中で暮らし始めた。部屋の中にある全ての窓を塞ぎ、全ての隙間を塞ぎ、光が射し込まない様に、僕らは完璧な暗い部屋の中で、一緒に過ごしていた。
お互いの姿が見えないので、僕らは何度もお互いを確かめ合うことになった。
「いる?」
「いるよ」
「本当にそこにいる?」
「いるよ」
「触って」
「いいよ」
「手を触れて」
「いいよ」
そうして僕らは何度もお互いの存在というものを確かめ合った。でもどちらかが眠ってしまえば、片方はずっと「いる?」と訊ね続けながら、孤独な暗闇に耐え続けなければならなかった。冷たい床に寝そべりながら、暗闇を見つめ続けて、隣にいるはずの人の返事が聞こえないだけで、泣きそうになり「いる?」と何度も訪ね続けるのだが、誰も返事をしない。誰も返事をしない。僕たちはほとんど孤独だった。ただの屍のようだ、という某RPGのメッセージを思い出す。あれは僕たちに与えられた示唆だ。ただの屍のようだ。僕らは、ただの屍のようだ。ある時、眠っていた彼女が目を覚まして「いるよ」と答えた。それだけで僕は何十年も暮らしていけるような気がした。それでも彼女が眠ってしまえば僕は孤独になったし、部屋が暗すぎてやはり姿は見えないから、僕らは確かめ続けなければならない。お互いの存在を。幸せな人はもっとたくさん、明かりがしきつめられた部屋に暮らすのだろうし、こんなに存在を確かめ合ったりはしないのかもしれない。部屋を明るくしなければいけないと思った。もっと光が欲しいと思った。探せば、どこかに扉があるのだろうけれど、しかしどこに扉があるのかも、もう忘れてしまった。その扉を開けば、すぐにでも明かりは漏れてくるのだろうけど、その扉がどの位置にあるのかは、もう暗すぎて分からなくなってしまった。僕たちはすでに出口を失くしたまま、いますか? という問いを繰り返し続けた。ノスタルジックの使者は、やがて返事をすることに飽きたのか、一人で歌い始めた。僕は一人で膝を抱え続けて、「いますか」と泣きながらつぶやき続けた。その呟きが、すでに誰に宛てられたものなのかも、分からなくなっていた。僕は眠った。もう問い続けるのに疲れたのだ。返事は聞こえない。
僕が眠り続けてから、二年が経った。
目が責めた時に、僕の上に何かが乗っかっている感覚があった。触れて確かめてみれば、ノスタルジックの使者が裸になって、僕にまたがっているのが分かった。
そのようにして、僕がノスタルジックの使者と、暗い部屋のベッドの上で『フロッグパーティの恍惚』をした時、ノスタルジックの使者は、僕の体を一瞬たりとも離そうとはしなかった。ずっとしがみついたまま、僕の体を抱きしめていた。もちろん僕もノスタルジックの使者を抱きしめ続けていた。ノスタルジックの使者は、体に触れるのが好きだった。まるで捕食した餌を離さない動物の様に、僕が逃げられないよう、僕の体に触れ、巻き付き、そして拘束した。僕はそれを愛の表現だと考え、抵抗はしなかった。決して抵抗しない、というのが僕の人生のテーマだった。
フロッグパーティの恍惚から一年ほどが立って、ノスタルジックの使者との間に子供が生まれた。ノスタルジックの使者は我が子を見ながらこう言った。
「世界中に誰も味方がいなくなった時に、私はこの子を味方にするの」
そしてノスタルジックの使者の子供は『ワン』と名付けられた。唯一の味方と言う意味での、ワンと言う意味らしかったが、僕には上手く理解できなかった。
ワンが生まれてからというもの、僕らは天井に人工的な明かりをつけることを決めた。その灯りは便宜的なものだったけれど、目が痛くなるくらいに明るかった。ワンと僕ら夫婦は、その眩しい明かりの中で暮らした。もうお互いに、どこにいるかを確かめ合わなくてもよくなったし、お互いに触り合う必要もなくなった。そして会話が途絶えた。触れ合いがなくなった。僕らは世界が明るくなっても、幸せにはなれなかったし、問題は何も解決などしなかった。
人工的な明かりの中で、ワンは順調に育っていった。この世界のありとあらゆるものに興味を示し、そして自らの好むものと嫌うものとを、分別していく作業を始めていた。ワンが好きなものは、アンパンマン、羊の人形、腕時計、バタークッキー、椅子の脚に付けるカバー、コカコーラのラベル、セロテープの芯、死んだ蛙、チ