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第18回 てきすとぽい杯
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梅雨のまにまに
みお
 投稿時刻 : 2014.06.14 23:43
 字数 : 2309
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梅雨のまにまに
みお


 雨は好きだた。温い空気の中で降る雨は全ての命を育むものだから、私は雨が好きだた。
 
 そろそろ夏が来る頃。夜になても気温が落ちない。
 私は声を潜めて古びた門をくぐた。青い着物は派手すぎただろうか、いつもの薄桃の方が美しいだろうか。赤い帯は着物に合ていただろうか。髪は乱れていないだろうか。野放図な庭を抜けながら私は火照る顔を両の手で押さえた。
 ……大丈夫。今日も、私は綺麗だ。
 勇気を奮て私は庭の隅にある、小さな小さな庵を見た。それは広い庭に似合わない、古びた庵だ。
 しかし、その中に、かの人が居る。
 そして、今日はかの人に別れを告げに来た。

 古い庵は狭苦しい。奥に一人の男が眠ているのが見える。
……どなた」
 まずはその人が声を上げたことに私は安堵する。同時に、腹が立つ。
 男は、萎れた手で布団をかきあげて、ようやと起き上がたところだ。
 白く濁た目が私を見る、その瞬間、まるで少年のような顔で彼は笑う。
「また君か」
 狡い人だ。その声で、その微笑みで、私はほらもう泣きそうなくらい、幸せなのだ。
「まあ、誰のことかしら」
 私は何でもないような声を出し、勝手に庵へ上がり込む。床に散らばた紙には、掠れるような筆の跡が見えた。
 それは絵のようであり、文字のようでもある。
「君、なんて心やすく仰るくらいですもの。他にお待ちの方でもいらるのかしら」
「不思議な人だ。君は、いつ訪れても姿が違うようだ。女は七変化するというが」
 男は布団に座たまま、にこりと笑う。
 この男は、学者であた。新しい植物を見つけ、名を付けて絵を描くのである。しかし年を取り過ぎた彼は、目をやられた。自棄になたのか、酒を浴びるように飲んで肝の臓を痛めた。不摂生が祟て腎臓もよくないようだ。結果、目が酷く濁た。
 そして世捨て人のように、小さな庵に大きな庭の、こんな屋敷に引きこもている。
「先日はまるで遊女のようだた。その前は少年のようでもある。今日の君は、愛らしいね。町娘のようだ。とはいえ、私の目はほとんど見えないから、空気を感じるしかないのだが……おいでなさい」
 男が手招くので私はついふらりと側に引き寄せられる。男の手は、私を抱きしめることをしなかた。ただ、老いた手が私の顔を優しく撫でただけである。
「君ほど変わる人をみたことがない」
 外は雨。ひどくなた。私の心に連動するように、古い庵がきしむほどに雨が降る。
「私はもう明日にでも死ぬ身で、忘れ去られた植物学者。あなただけが私の元に来てくれる。そろそろ目的を聞いても?」
……
 濁た空気を厭うように私は庵の窓を開けた。雨が吹き込んで私の着物を濡らす。心地の良い雨だが、そろそろ季節は移ろう。
 庭を眺めると、そこには青の雲海があた。桃色の雲海もみえる。それは紫陽花である。雨に打たれる姿が美しい花である。紫陽花は雨の中でもただただ色を失わない。
「ああ、この雨が止めばもう夏になろう。夏になれば庭の花も変わるだろう。ねえ君、今は紫陽花が綺麗だろう。この目でも、その色はよくみえる。青に薄桃色に、赤に……ああ」
 男は気付けば私の隣にいる。年を取たとはいえ、背の高い人だた。彼の口から漏れる言葉は詩のようでもあた。
 彼は詩人でもあた。いくつも花の詩を詠んだ。
「アア……七変化する花、まるで君のような」
 私は小さく頷いて、震える手を男の掌に重ねる。老いた手だ。しかしその手がかつて筆を握り私の名を書いた事がある。
 まだ若かりし頃の彼は、力強い文字で私の名を書いた。
 ……紫陽花。何と美しい文字だろうか。
 太陽など縁の遠い花である。雨の似合う花である。しかしその花に、この人は太陽の名を与えた。太陽の光に透ける花弁を、彼は見たのかもしれない。
 彼は目を病んで庵に籠もた際、庭に紫陽花を大量に植えた。目が病んでいく中でも、紫陽花の花だけは彼の目に留まり続けたのだ。曇り空の中に咲くその青が赤が。
 彼は愛を囁くように紫陽花の名を呼んだ。
 特に軒下に咲く小さな紫陽花を彼は愛した。庭から離れて咲いた、哀れなその小さな苗を彼は立派に育てよと囁いた。
……あなたが私に名を与えたので」
 その声に私は恋をした。そして願たのだ。夏となる前に人となり、七度だけ彼に会いたい。
「御礼のために伺たのです、まもなく私は散てしまうので」
 私は震える声で呟いた。重なる手は熱いほどだた。庭の紫陽花が私を見つめる。あれは私であり、私の母であり、私の兄妹である。
 まもなく散る仲間である。梅雨が明ければ私たちは眠りについて、来年まで目を覚まさない。来年、この男は恐らくもうこの世に存在しない。
「さようなら」
 今宵がその七度目の夜。幾度姿を変えようと彼は必ず私であると、見抜いた。
 見抜かれなければ悟られなければ本心を告げるつもりはなかた。ただ側に居て世話を焼くだけでよかた。
「待て」
 去ろうとした私の手を彼が掴む。皺の寄た手で、彼は私の手を撫でた。かつて私の葉を撫でたように。
「ありがとう」
 消え入る声を私は背で聞いた。
「ありがとう」
 涙を堪えて私は言た。
 飛び出した私に雨が降る。手が枝となり、青い着物は薄い花弁の花となる。裳裾は大地に広がり根となて、彼を忘れられず伸ばした手に広がる葉。雨が注いで涙のように流れ落ちた。
 しかし雨は今宵で終わりだろう。そろそろ季節は移り変わる。雨が止めば私は枯れてもう彼を見ることもできない。
 さようならと、呟いた言葉は声にならない。青い花がはらりと散る。
 私の恩人は、雨の向こうに掠れて消えた。
 雨は好きだた。温い空気の中で降る雨は全ての命を育むものだから、私は雨が好きだた。
 しかし、私の恋は、雨に溶けたのだ。
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