あなたを思う
月の光が、静かに庭を照らしている。
ゆるゆると歩く。大気には、雨を思わせる香りがした。立ち止まるとどこからか、つい、とミントの香りがして、その後にほんのりと、タイムやロー
ズマリーが混じる。
不意に、ゼラニウムの香りがした。
「月の光に濡れると、帰りたくなくなるんだってさ」
振り向くと、呆れたような顔をした彼女がいた。
「いつまでうろうろと、さ迷っているつもり?」
「ここは美しいからね」
わたしは答えた。
「月の光に濡れながら、緑の中を歩く。ぜいたくなひとときだ」
「堪能したなら、あとは安らかに休みなよ。眠いだろ、こんな夜更けにいつまでも」
「もう少し、いても良いだろう?」
わたしは庭に目をやった。
「昼間はざわざわと騒がしい。月光の元の世界がこんなにも静かで心を安らがせるなんて、もう何年も思い出しもしなかった」
「忙しい日々だったんだろうね。それは想像がつくよ」
彼女は言うと、近くにあった東屋に歩を進めた。わたしも後に従った。
東屋に着くと、そこにはお茶の用意がしてあった。使い込まれた感のある白いポットとカップは、どこか花の形を思わせる、優しげな形をしていた。
ゼラニウムの香り。
「何かつけている?」
温かい紅茶を注がれたカップを差し出され、わたしが尋ねると、彼女はちょっと考えてから、「虫除け」と答えた。
「虫除け?」
「咬まれるとかゆいから」
「現実的なことを言うね。こんな場所なのに」
「わたしにロマンを求めるな」
紅茶を一口。のどを通り過ぎる温かさ。冷えていたのだ、と気がつかされる。
「それ飲んだらもう、終わりにしな」
「うろつくのを?」
「そう。ほどほどが一番なんだからね、どんな事も。月光は美しい。でも、いつまでもふらついてはいられないよ。
美しいものは、美しいと認めて。手放す覚悟もしないとね」
「手放す」
「これが欲しいと、自分のものにしようとした途端、本当に綺麗なものは、見えなくなるものだからさ」
「哲学的なことを言う」
「そうか? 当たり前のことだろ。人間には」
彼女はふう、と息をついた。
「きれいなものに心惹かれるのも、それを欲しいと思うのも。人間には普通だ。でもそのあと、それを自分のものにしてはいけないと気がついて。手放す勇気を持たないと、なんだよ」
「そうだな」
わたしは微笑んだ。
「そうなんだろうな」
どこかで鋭く、鳥の声がした。ミントの香り。しめった大気。温かい紅茶。
ゼラニウムの彼女。
「わたしはでも、手放したくないと思ったんだ」
「ああ」
「手放したくない。忘れたくないんだ」
「わかるよ。でも、もう終わりにしないとね。次に進めない」
「進みたくない」
涙がこぼれた。
「ここにずっといたい」
月光。静かな光。優しい紅茶の味。静かな花の香り。
「わかっているんだろ?」
彼女の声。
「あなたはもう、行かないと」
いやだ、と言いたかった。
でも、それは、言ってはならないことなのだと、知っていた。
「お茶を、もう一杯もらえるかい」
だから、わたしはその代わりにそう言った。
「それを飲んだら、終わりにするよ」