「……ん、雨？」
　目覚めると、なぜかいつもの海浜公園に寝そべっていた。真夏の青空が目に沁みる。
　柔らかな風。刈り込まれた芝生の感触と匂いが潮騒に混じるこの感じって、やっぱり心地いい。
「なんだ、いいお天気じゃない」
　起き上がるときに触れた部分が少し濡れていたけれど……大丈夫、犬の臭いはしないし、細かいことは気にしないことにした。というのも、もっと大きな違和感が襲って来たからだ。
「あれ……宿題、まだ終わってなかったはずなのにな」
　どうも記憶が“飛んでいる”のである。期末試験前の一周間に当たるから、今日は部活もすぐ終わり、早めに帰宅していたはずだった。そしてあまりに早く家に帰ると小学校時代を思い出すのか、宿題を済ませてからでないと外に出歩いたりできなくなる性分なのだ。ましてもう中学３年生。受験を控えた身の上でこんな暴挙に出たなんて、自分にとっては信じがたいことだった。
「やあ、起きたみたいじゃの」
「ふおっ！？」
　いきなり背後から話しかけられて変な声を出してしまった。恐る恐る振り向くと、髭まで白髪の70～80歳くらいのおじいさんが異様に笑顔を振りまいて立っていた。
「な、なんですか……？」
　怖い感じは全然しないけど、私に何か用でもあるのだろうか。なんだかこの公園には似つかわしくない気がする。
「ホホホ………驚かせたかの？　儂は式神。神の使いじゃよ」
「……は？」
　えーと、大丈夫かなこのおじいさん。人間じゃないつもりみたいだけど……。何か悲しいことでもあったのなら、優しく接してあげたいとこだけど……受験生は忙しいからな。
「すみません、あの……」
「ここはの、君にとってはもう一つの世界じゃ。分かりやすく説明するなら……君は、並行世界に転生したんじゃよ」
　う～……いよいよ何の事だか分からないです。ごめんね、おじいさん……。
「すみません、私、急いで帰らないといけないので……ごきげんよう、さようなら」
　少し気は引けたけど、まだ明るくて公園にはたくさん人もいるし、私はそそくさとその場を立ち去った。しばらく歩いているうちにやっぱり気になって振り返ったのだけど、意外にもおじいさんがハンカチを振って見送ってくれていたので安心した。

　けれど不安はすぐに膨らんでいった。まっすぐ家に帰ってきたはずなのに、どうにも様子がおかしいのだ。
「高遠……？　何この表札……」
　近所の家並みも、家の庭木の様子も違うので、違和感は遠くからでも感じられていた。それが決定的となったのが門構えの変わりようである。玄関はもちろん、表札の苗字が違う以上は明らかに別人の家としか思えない。
「……チコ、いないのチコ？」
　この辺りにしばらく住み着いている野良猫を呼んでみるけれど現れる様子はない。煙草の自販機がなくなっているけど、裏手の基地局はそのままなので場所に間違いはないはず……。
「えっ、スマホがない……！？　そんなはず……」
　地図を確認しようとして初めて気がついた。今年やっと買ってもらったスマホを持って来ていないのだ。そして、家の鍵も財布も、何ひとつ持ち出していないことに茫然としていると……。
「そら、やっと追いついた」
「……え？」
　振り向くと、あのおじいさんがそこに立っていたのである。
（付けられた様子はなかったのに、どうして私がここにいるって……？）
「ここは並行世界と言ったはずじゃよ？　もうそこは君の家ではないのじゃ」
　……そういえばこの人、私が転生したって……。転生？
「これを使うといい。この住所に行けば、新しい家を用意してあるでな」
「転生って……じゃあ私、死んじゃったの？」
　すると、白髪の老人は初めて顔を曇らせてから答えたのだった。
「……普通の人間なら、死んだらそれまでじゃ。だが君は、とても心映えの優しい女の子じゃったからの」
　優しげな声が、余計に真実味を帯びさせて……私はだんだん言いようのない恐怖に包まれはじめていた。
「たとえば、いじめられていた少年を庇ったり、自殺しそうになっていた人を助けたりしたじゃろう？　きっと神様が、一度だけ願いを叶えてくれたのじゃよ」
「でも……でも、お父さんもお母さんも、誰もいない世界なんて……嫌だよ、帰してよ！」
　しかし老人は、悲痛な面持ちでただ謝るだけ謝って、そそくさとその場を立ち去るのだった。
「……儂は神様ではないから、どうすることもできないんじゃ……。すまんの、美奈子くん……」


　これから自分はどうなるのか、どう生きて行けばいいか。道が見つからない。自分の家もやっぱり見つからない。ほとんど見知らぬ街並みと化した大通りにまで繰り出して、夕方になっても当て所なく彷徨い歩いていたときだった。字幕から何から全部が英語の番組がスクリーンに映し出されるなか、ニュース速報らしきものが流れはじめたと思ったら、現れたのがなんとあの老人だったのである。
『ドクター田尾野！　田尾野博士！』
　中学生のリスニングでは内容なんてほとんど分からない。けれど老人の名前が呼ばれたらしいこと、老人が逮捕されたらしいことだけは分かったので、すっかり混乱しながら見入っていた。……田尾野？　どこかで聞いた名前……１年のとき、ハンカチを貸してあげた同級生にそんな名前の人がいたような？
『ドクター田尾野、50年前に実在した人物の記憶を再構成してクローンに移植した罪で自首されたと伺いましたが、本当ですか？　今のご心境は？』
『……儂は、この日のために研究者になった。どうしてももう一度彼女に会いたくて、彼女に人生を生きてほしくて、脳組織における記憶の再構成技術を完成させたのだ。どうすれば彼女の笑顔にもう一度会えるのか、その答えを捜し続けた人生だった。たとえ重罪と言われようとも、儂の人生に悔いはない。ただ……彼女のことは、そっとしておいてくれたまえ』


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜了＞

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