声無き吟遊詩人
あれは星の灯りしか道を照らすものの無い夜のことでした。
夜道を1人歩くのは心許なく、せめて出来る限り早く次の街へ辿り着こうと、急ぎ足で進んでおりました。どうして1人で夜道を歩くことにな
ったかは別として、ともかくそうした夜道での出来事です。
急いで歩けば魔物と遭遇することなどない、などと都合のよいことがあるはずもなく、獣の匂いとシュウシュウと魔法の息を吐く音が聞こえてきました。
グルル……と唸り声が響いた方にカンテラを向けてみると、そこには獅子の頭とヤギの頭、そして蛇の頭がゆらりと揺れていました。見た事も無いような魔物がそこにいたのです。
私はガシャンとカンテラを取り落とし、情けないことに腰を抜かしてしまいました。
獅子の唸り声にヤギの蹄の音、そして蛇がシュウシュウと威嚇する音が近付いて、トッ……と私に向かって跳躍したのが見えました。
しかし……そのとき、何処からともなく美しい竪琴の音が聞こえて来たのです。
それは夢のような音でした。凶悪な魔物がそこにいることも忘れてしまうほどの、鈴のように繊細で、少し濡れたような重い音色。目を閉じると今でもはっきりと聞こえる気がします。腰を抜かして座り込んだまま、私は音の方に首を捻りました。
するとそこには、カンテラを咥えたカラスを肩に乗せた人間……いや、今考えるとそれが人間なのかどうなのかは定かではありませんが、しかし少なくとも私と同じ風な人の形をした者が立っていました。
カンテラに照らされた顔は目隠しをしています。長い髪は夜空よりも昏い黒、着ている長衣は魔道師のようです。
彼女、いえ、彼、でしょうか。竪琴を手にしていますから、吟遊詩人かもしれません。
吟遊詩人が手にした竪琴に指を滑らせると、細やかな調べが鳴り響きます。獅子の唸り声が止み、ヤギの蹄の音が無くなり、蛇の威嚇音が消えました。獣の匂いも消え、見ると魔物がまるで忠実な犬のように伏せたのです。
これは後から知った話ですが、なんでもとある国の王が雇っている将の中に、とても将とは思えないほど美しい吟遊詩人がいるのだそうです。吟遊詩人は目も見えず、口も聞けませんが、その調べを聞いた魔獣は戦闘意欲を失い、その調べを聞いた人間はあまりの戦慄の美しさに剣の技を忘れるのだとか。
私も実は夜空色の薬湯の調合の仕方だけを忘れてしまったのですが、それがあの吟遊詩人の調べを聞いてしまったからかどうかは定かではありません。