第25回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動3周年記念〉
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ある気象予報士の誉れ
投稿時刻 : 2015.02.14 23:29 最終更新 : 2015.02.14 23:34
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- 2015/02/14 23:34:24
- 2015/02/14 23:29:14
ある気象予報士の誉れ
太友 豪


 その男はかつて世界を救たのだという。

 ひとの吐く息は、白い霧のようになてながれ、つぎの朝には数人の路上生活者が冷たくなているようなある晩。小さな打ち明け話が始また。

 脂と街のほこりでいくつもの房になた長い髪の毛からは獣のようなにおいが立ち上る。両目は目脂で塞がりかかている。
 表通りには、酒精の力を借りて強気になた労働者たちが行き交う。彼らは時折ぶつかては互いにろれつの回らない口調でやりとりを交わしている。
 ビルとビルの間。労働者たちに酒を提供する店の出す生ゴミや、店で出された料理のなれの果ての反吐を押し込むのにおあつらえ向きの場所。
 自称英雄は、そこをねぐらにしている男だ。彼は月の満ち欠けで二回り分前にこの場所にやてきた。
 傷だらけのその男は、自分と同じような人間たちからすら見捨てられたこの場所でようやく居場所を得ることが出来た。意地汚く肥え太たドブネズミたちだけが、男の存在を許容した。ドブネズミに取てみれば、年老い、病を得て弱り切た人間など少し風変わりなツマミのようなものなのだろう。彼らがもし餓えていければ、男はその日のうちに無数のナイフで残りわずかな肉を削り取られて死んでいただろう。生ゴミで舌の肥えた彼らにとては、危険をおかしてでも食べたいと思う魅力がないことは男にとて幸運といえるだろう。
 時々私は、男にちかいを掛けようとするドブネズミを追い払てやることがあた。私はドブネズミというやつを生理的に受けつけない。汚らしくひかる毛皮や、個別の意思を持つように動く細長いしぽなどを見ると全身を怖気が走る。
 要は自分の精神衛生のための行動なのだが、男はそれが原因で私を味方だと認識したらしい。
 いろいろな話を私にするようになた。
 男の歯はほとんどが失われている。抜け落ちたのか、折られたのか。男にとてはもうどうでもいいのだろう。私にとては、男の発声が不明瞭であても支障ない。

 男は優秀な気象予報官だたのだという。自分と同じような仕事をするもののうち、彼ほど正確に近い将来の天気を当てられるものはいなかた。
 地形、上空の風向き、雲の発達。それらの情報を組み合わせて男は誰よりも誤差の少ない予報を作り出してきた。
 男の予報のおかげで、晴れているけれど風の強い夜をめざし大きな大きな飛行機の大編隊が飛び立ち、重要な知見を男の国にもたらした。
 男の予報のおかげで、どこか遠くの、好天の地域とそうでない地域がわかたのだという。
 そして、戦争が終わた。だから男は英雄なのだという。
 英雄を名乗る男の表情からは、何かが抜け落ちている。若さや健康ならば、とうの昔になくしただろう。知性――正気――果たしてそんなものを持て人間が生きながらえることができるものだろうか。
 彼の顔は森の立ち枯れた巨木のうろのようだ。暗く、乾き、虚ろな。
 あの巨木のうろには毒蛇が住んでいるという。私はなぜかそんな噂を仲間から聞いたことを思い出した。
 一瞬私は男から意識をそらした。再び注意を向けたとき、男は目脂で開かなくなていたはずの眼を見開いたまま動かなくなていた。朝には、凍り付いているかもしれない。
 私には男の大きな身体を動かしてやることは出来ない。
 私は決めた。せめて夜が明けて人間が男に気がつくまでドブネズミから男の身体を守てやる。
 英雄だろうがほら吹きだろうが。
 私はそう決めた。 
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