空っぽのコカ・コーラ
僕が住んでいる町には空洞が存在している。どうして空洞が町にあるのか。それがいつ現れたものなのか。それを気にする人は、この町には誰もいなか
った。時折、町の外から空洞を調査しに現れる人物もいる。空洞がどのような性質のものかを調査する学者たちだ。しかし、ほとんどの住人は空洞にも学者にも無関心だった。
「もしあなたが空洞を怖れていて、自分の中に空洞が出来るのが嫌だとしたら、それはまだ自分の中に失うべきものがあるって事なのよ。それはとても幸運な事だわ」
バスルームの中に黒色の電話機を置いている売春婦の彼女はそう言った。彼女は世界の外側から電話がかかってくることを期待している。しかし、彼女にかかってくる電話は全て男の欲望に直結したものだけだった。
なぜ、バスルームに電話機を置いているかは知らない。ゴミ箱と便器と洗濯機と浴槽と暖炉の中に電話機を置いて試してみたところ、バスルームの浴槽の中に電話機を置いた時が一番稼ぎが良かったらしい。
「一番声が響くから」
とも言っていた。彼女は世界の外側からの声を待っている。
「まるっきり体の中が空洞な奴なんて居るのかよ」
彼女と繋がりながら僕は言った。ベッドに横になっている彼女の空洞に僕は入り込む。コカ・コーラを頭からかぶって体中がベトベトになった僕を彼女は拒まない。コカ・コーラのコカはコカインのコカだからあなたはコカインを止めてコカ・コーラを飲むべきよ、と彼女は言って、僕は彼女と会っている時だけはコカ・コーラを用いる習慣を続けている。コカ・コーラ社にすすんで金を提供するのは嫌だったが、コカ・コーラはコカ・コーラで体に悪影響を及ぼすから、僕はコカインでもコカ・コーラでも自分の中に取り入れるのならば、どちらでも良かった。ただ昔から体が炭酸を受け付けず、コカ・コーラを飲めなかったので、僕はコカ・コーラをワックス代わりに使っている。コカ・コーラを髪にかけると、髪がいい具合にベトベトして毛がしおれる感覚が好きだった。
肌が嘘くさい甘さでベトベトになると僕は感傷に浸る。昔、好きな子の写真を散々にベトベトにしたことを思い出す。僕はいつだって汚れた手で、その子の写真を触っていた。その子は、僕がどのような気持ちの時に眺めても綺麗だったのに、どんどん汚れていく僕の手が、切り取られたある時点の彼女の姿を修復不可能なぐらいに汚していった。写真の中ではいつまでも綺麗だった彼女を見るのが僕は好きだった。もちろん時間が経てば経つほど、過去の様々なものが美しく見えるということは、そしてそれがくだらない感傷と慰めにしかならないことは、十分すぎるほど解っていたけれど。
僕の仕事はゴミ捨て場に捨てられた廃材を使って、芸術作品を作る事だった。しかし誰もその作業のことを僕の仕事だとは思っていない。
人々はただ僕の頭が狂っていて、ゴミを使って新たなゴミを作るキチガイだと思っていた。
僕にこの仕事を教えてくれたのは、近くの公園で帝国を築き上げるアウラさんだった。彼は三十七年間、ずっと薬缶を作る仕事をしていたが、薬缶が全く売れず、妻にも見放されてホームレスになり、公園内に段ボールで帝国を作り始めたのだ。彼は孤独だった。彼に協力する人物は皆無だった。それどころか、街の人々は彼が帝国を作ろうとすると、率先して邪魔をした。彼が公園内の土地を使って、段ボールで城を作り始めると、スーツを着た男と髭を生やした恰幅のいい男が現れた。
「あまり目立つ物を作るのは困るんですなあ。せっかく我々が、あなたのような惨めな男を公園に置くことに目を瞑っているというのに。こんな景観を壊すような勝手な真似をされたら困るんです。あなたはいつだって我々に迷惑をかけてばかりだ。あんたのような人種は、たいした物を生み出さないくせに、孤独であるという免罪符を楯に言い訳ばかりをして、自分勝手な行動をして人々に迷惑をかける。訳のわからん思想を持って、それを正義として、くだらんことばかりをやる。いいですか? あなたが今すぐに、このみすぼらしい段ボールの山を片付けるか、それとも今すぐここから出ていくか、どちらかを選んでいただきたい」
しかしアウラさんはどちらも選ばなかった。彼はどんなに邪魔をされようが己の帝国を作り上げることに注力した。彼は決して屈しなかった。世間から見れば彼はおかしい人物かもしれなかったが、しかし彼は信念を持ってそれを作り上げようとしたのだ。それを果たして、常識だからという理由で、邪魔だからという理由で、景観が崩れるからという理由で、僕らが暮らしやすくなるために築かれていった約束事のせいで崩されていいものなのか、僕には分からなかった。だから、僕は売春婦の彼女を連れて、アウラさんに会ったのだ。アウラさんに会って、自分の考えを決めようと思ったのだ。
「この世には意味のある物が多すぎる」
アウラさんはそう答えた。
「私もそう思っていたところなの」
彼女はそう言った。
彼女は自分がそう思っていなくても、他人の考えに賛同を示す癖があった。
アウラさんは頷きながら言った。
「もっと無意味なものを増やすべきだ。そうだろう? 無意味なものは、人に考える力を与える。これは何だろう。なんのためにあるんだろう、と色々な想像を膨らませるんだ。例えば合成ゴムで作られたマントヒヒの置物があるとする。これは無意味だろう。でも、何となくこれが気になってしまい、欲しいと思うような人は存在するんだ。そしてそれを見て、何となく救われたり、何となく馬鹿らしくなって笑ったりする人がいる。無意味なものには無限の可能性があるんだ。それなのに人はすぐに意味を求めたがる。意味を与えたがる。意味のある物ばかりを買いたがる。意味がある物は危険だ。何かを定義してしまうことは、想像力の欠如だ。固定観念は、限りある可能性を狭める。例えばとても巨大な塩水の溜まりに『海』と名付けた瞬間から、我々の想像力は狭まった。それにどんな名前を与えるのか、そしてそれをどんなふうに利用するのか、その楽しみを奪った。我々は様々なものに名前を与えたり、意味を与えたり、成分を解析したり、使い道を解明したり、商品価値を与えたり、便利なものを生み出したり、そうすることで生きやすい世界を作るロボットのようになってしまったんだ。俺はな、もっと無意味なものを作りたいんだ。これは何だろう。これってなんか面白いな。そんな風に思える物を作りたいんだよ。まあ、別に意味のある物はいっぱい存在したって、別にいいとは思うよ。否定的なことを言ったけれど、便利なものは世の中に普及していくべきだと思う。人の命を救ったりできるしな。ただ、無意味な物もたくさんあっていいだろう? もっと無意味なものを作るべきなんだよ。それは、人の空洞を埋めるものなんだよ。そして、その無意味なものを作る人を軽蔑しない社会を作るべきだ」
そんな考え方をする人は、僕の町にはあまり存在しなかった。少なくとも僕は、今までにそのような考え方をする人に出会ったことなかった。僕はアウラさんの言ってることがなんとなく解るような気がした。共感できるような気がした。
「ねえ、そういうのって芸術って言うのよ」
「ほら、お前らはそうやってすぐに、誰かが名づけた既成の名称を使いたがる」
アウラさんは憤慨してそう言った。
「いいじゃない。分かりやすくて。カテゴライズや命名はデメリットばかりじゃないのよ」
「ふん、くだらない。試しに、お前ら。これからいろいろな物の名前を自分たちの想像で名づけてみろ」
そう言われてから僕たちは、日常で使う様々なものに、そして目にした様々な現象に、自分たちで名前を付けていった。そのゲームのような遊びは僕たちのお気に入りとなった。暇さえあればその遊びが行われるようになった。
例えば、午後四時十七分に振り始めた雨には『太陽と夕暮れの破局』、路地裏のコンクリートに書かれた何のために存在するか分からない白線の横断歩道には、『誰も奏でることの無かった十六鍵ピアノ』。可愛い少女だけにキャラメルをあげることで有名なトウモロコシ畑で働く中年男には『キャラメルコーンおじさんの種まき講座』、彼女が堕胎手術を受けるために訪れた病院にいた看護婦には『返り血を浴びるために真っ白でいることを選んだ天使』。広場で踊りの練習をしている少女の上の電線にカラスがとまっている光景には『境界線上のあなたのために捧げる祈り』。僕らの付けた名前をアウラさんが気に入ってくれることは、一度としてなかったけれど、それでもアウラさんは僕らと仲よくしてくれた。
そして彼もまた、僕らを独特に表現してみせる。
僕の事を『損なわれるコカ・コーラ(フリースタイル)』と名付けた。
彼女の事を『不思議の国のバスルームより連絡を待つ兎を亡くしたアリス』と名付けた。
もちろんそんな名前で僕らを呼ぶことは、滅多になかったけれど。
彼が一度だけ、僕に言った事がある。
「無意味なものは、見る者の想像力の死角からハンマーでぶん殴るようなものでなければいけない。そして見る者の頭の中で想像力の爆発を起こすようなものでなければならない。そして見る者の心の傷と共鳴して涙を流させるものでなければいけない、自分でも何が起こったのか分からないまま、立ち尽くして、あまりの爆発の強さにどうしていいか分からずに涙を流させるようなもの。それが無意味な物の持つパワーだ」と。
それが彼なりの芸術の定義なのかもしれないと思った。が、もちろんそれを口には出すことはしなかった。彼は芸術という言葉が嫌いだった。そして定義という言葉も。
アウラさんは結局、公園を追い出されてそのまま僕らの前からの姿を消した。今から一年前の事だ。結局、彼の段ボール帝国は完成前に崩壊し、彼の作り出す無意味なものはただの空洞となった。僕とアウラさんは一年ほどしか一緒にいられなかった。でも彼は最期の一ヶ月で、僕に仕事を教えてくれた。
「お前は、無意味なものを作るべきだ」
「どうしてですか」
「俺がいつか空洞になるからだよ」
「空洞……ですか」
「俺が空洞になるか、俺が空洞に呑み込まれて消えるのか。それは分からないけれど、俺は近いうちに、街の空洞となって消えるだろう」
「寂しいですね」
「だから、気が向いたら、無意味なものを作れよ。別に強制はしねえけどよ」
それから彼は一か月間で、様々な無意味な物の作り方を教えてくれた。
ユニオンジャック柄に塗られた、注ぎ口のない薬缶。ティッシュを摘まむための二本の棒。フ