第26回 てきすとぽい杯
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岬のユーリア
大沢愛
投稿時刻 : 2015.04.11 23:37
字数 : 3229
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岬のユーリア
大沢愛


 海に突き出た岬の突端に、ユーリアの家はあた。
 遥か下にある海はいつも荒れていて、重い雲は晴れることがなかた。
 日に一度、岬から離れた森の中に水汲みに行く。ユーリアが初めて任された仕事だた。母親は薪拾いとキノコ集め、ときどき崖から浜辺に降りて、打ち上げられる魚や貝類を拾てくる。薪には使えるものと使えないものがあり、キノコや魚介類は有毒かどうかを見分けなければならない。何も知らなくてもできるのは水汲みだけだた。
 湧水を小さな桶に汲み、ユーリアの家まで運ぶ。水桶に満たすには十回以上、往復しなければならなかた。ちいさな手には重すぎる桶を、ゆくりと運ぶ。あせてこぼしてしまてはもう一往復が加算される。森の中は薄暗く、歩いていると何かの息遣いが聞こえてきそうだた。
 もと森に近いところに棲めばいいのに、と言たことがある。母親は黙て首を振た。
――ここじなき、見つからないからね。
 何が見つけるというのか、いくら訊いても答えてくれなかた。

             †
 ユーリアが十五歳のときに、母親は死んだ。死ぬ一週間前から、母親はベドに横たわたまま、自分の死後、何をすべきかユーリアに教えた。それまでにはなかた、あることが付け加えられた。
――一日一度、必ず水浴びをして、髪と身体をきれいにすること。
 理由を訊く間もなく、母親の言葉は続いた。聞き漏らさないように気を張て、ようやく語り終えたとき、母親はもうなにも喋らなくなた。

             †
 母親の亡骸を岬の突端に埋め、ユーリアはいつもの毎日に戻た。亡くなる少し前から母親のやていたことはすべてユーリアの手にゆだねられていた。暗いうちから起き出し、魚探しにキノコ採り、薪集めに洗濯、掃除、そして水汲み。ユーリアの手に提げられているのはあの小さな桶ではなく、一回り大きな桶だた。母親が息を切らせて持ち上げていたその桶を、ひとりで運べるようになていた。それでも両手に提げて森を抜けると、はるか先に見える岬の家に、母親が待ているような気がした。
 夕暮れ時に森の中で水浴びをし、髪を洗た。念入りに擦るほどに身体は水の香りを纏ていた。それまでの垢じみた自分のにおいとは別物だた。暗くなる前に森を抜け、家に戻ると鍋に仕掛けておいた夕食ができあがていた。ひとりで食べてもほとんど減らない。それでも母親は、食べ物は必ず多めに作るように言い残していた。翌朝食べても残てしまた分は、家の周りの草叢に捨てるように、と言われていた。食べ物を捨てたあたりにはときどき鳥が集まてきた。家の中に居ても鳴き声が聞こえる。立ち働きながら、無意識に耳で追う。
 渡りの季節になり、鳥たちが去たあと、何羽かの飛べない鳥が残された。冬の間、家の中で一緒に暮らした。生き物の気配の増えた家は、すこしだけ温かくなた。

             †
 春になた。冬の間、億劫だた水浴びから帰て来たとき、家の前に人影があた。振り向いたそれは、母親よりもずと大きかた。近寄ると、獣じみた体臭がした。何か喋りかけるが、聞き取れない。ユーリアは家の中に招いた。多めに作ていた食事が役だた。頭にかぶていたものを取ると、つるつるした頭頂部が見えた。顔の半分を毛が覆ていた。母親は言た、それは男だよ。母親は全てを予見していた。食事が終わると、男を母親の使ていたベドに案内した。部屋のドアを閉め、久し振りに二人ぶんの食器を洗うと、ユーリアは床に就いた。
 夜中に目が覚めた。ユーリアの上に男が覆い被さていた。声を上げそうになる口を手で塞がれた。動悸のする中、母親の言葉通りに振る舞た。男が何をしようとするか、母親は知ていた。なにも分からないまま、ユーリアは自分を明け渡した。男の吐く息の臭さに気が遠くなた。やがて、身体が軽くなた。部屋のドアが閉まり、疲れ切たユーリアはそのまま眠りに落ちた。
 翌朝、男の姿はなかた。乱れた母親のベドには、胸の悪くなる臭いが残ていた。シーツを洗い、いつもの日課に移た。夕暮れどきに、いつもより念入りに身体を洗た。

             †
 母親の言葉通り、いくらか間隔を置いてはだれかが家を訪ねて来るようになた。言葉が通じるものもいた。自分は世界を旅している、と言た。これまで歩いた距離は地球三個分だ、とおどける。地球というものがわからないユーリアは、ただ微笑んだ。
 話ができる相手はそれだけでうれしかた。その男はユーリアよりも背が低く、顔はあばただらけだたけれど、ベドの上ではよく見えない。愛している、と何度も言われた。意味は分からない。男がとても焦ていることだけは分かた。部屋を出て行く男に、ここにいて、と言てみた。男は何も答えず、翌朝、空のベドだけが残された。

             †
 母親はユーリアに、尋ねて来るのはお前の夫だ、と教えた。夫というものは夜、ベドでのしかかてきたあと、必ずいなくなる、と。不安そうにするユーリアの頭を母親は撫でた。
――でも、それは逃げたんじない。逃げることはできないんだ。
 母親の口から「父親」という言葉は一度も出なかた。ユーリアの頭にも「父親」という言葉はない。自分に「父親」というものがいるのかいないのか、知らなかたし、知る必要もなかた。

             †
 冬が来て、また春になた。訪れる男たちを迎えることにも慣れていた。そんなある日、一人の男がやて来た。ひさしぶりに言葉の通じる相手だた。「きみ」と呼ばれたのは初めてだた。名前を訊かれたのも初めてだた。なによりも、夜、ユーリアのベドに入て来なかた男は初めてだた。
 それまでとは違い、男の肌はユーリアと変わらないほどすべすべしていた。息の香りはすこし青臭く、水浴びをした後の肌に似ていた。翌日、男はユーリアについて浜辺や森を歩き回た。最後に、ユーリアと一緒に水浴びをした。夕暮れの光の中で見る男の身体は、あちこちに隆起があた。身体を拭き終わると、並んで家に帰た。誰かと一緒に家に帰るのは初めてのことだた。
 その夜、やはり男はベドに来なかた。ユーリアは意を決して、男の寝ている部屋に入た。寝息を頼りに近づくと、覆い被さた。男は目を覚まし、驚いた様子だたが、ユーリアの身体は雄弁だた。いつの間にか身体が入れ替わり、ユーリアはすべすべした肌を受け容れていた。途中から、涙が溢れた。どうしようもなく流れ続け、男が優しく囁いても止まらなかた。
 翌朝、やはり男の姿はなかた。ユーリアはしばらくシーツを見つめたあと、家を飛び出した。鳥たちが驚いて飛び立た。草叢を走り、息が切れかけたところで、男が倒れていた。ユーリアが爪痕をつけた首筋は冷たくなていた。草叢のあちこちから、ギンリウソウに似た茎が伸びていた。中には人の背丈に達したものもある。ユーリアの精華だた。手近な一本に手を添えると、引きちぎる。涙が溢れてくる。次々に茎を握ては引き抜いて行く。大きな果嚢をつけたものは抜いたあと、果嚢を踏み潰した。一つ残らず抜き捨てたあと、ユーリアは背中を見下ろして、嗚咽を繰り返した。

             †
 季節が過ぎた。岬の家を訪ねる男たちは相変わらず絶えることがなかた。
 家の裏手の草叢には、引き抜かれた無数の茎を従えて、一本の草が立ていた。
 ユーリアは日に一度、草の前にやて来る。茎はもう人間の腕ほどになている。両手に抱えるほどになた果嚢に手を触れる。ちいさな罅が入ていた。母親の言葉を思い出す。果嚢をしかりと抱き、胸を押しつける。罅がそれとわかるほど口を開け、中から鳴き声が上がた。裂け目に手を入れて二つに割る。白い肌の赤子がそこにいた。ユーリアと同じ、金色の髪がかすかに生えている。先端のとがた耳は、あの男にそくりだた。赤子を取り上げてそと抱く。すべすべしていたユーリアの手には皺が見える。家に向かて歩き出す後ろ姿は、母親にそくりだた。
                      (了)
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