たとえアナタがいなくても
異変に気付いたのは、一日の仕事を終えて部屋を出ようとした時だ
った。
「鳴瀬くん、今日はもう終わり?」
「早いな。どうだ、これから一緒に飲みに行かないか?」
「すみません。これから彼女と約束があるので」
同僚たちの誘いを断り俺は足早に部屋を出る、つもりだった。
あんな言葉が聞こえてこなければ。
「へえ。 鳴瀬に彼女がいたんだ」
同僚の声に、俺は「えっ」とふり返る。すると、部屋にいたほぼ全員が俺に好奇の目を向けていた。俺の戸惑いに気付かずに、何人かの同僚が集まってくる。
「どんな子? 年上? 年下?」
「いったいどこで知り合ったんだ?」
「先輩、写真見せてくださいよ~。まさか一枚も撮っていないとは言わせませんよ」
その反応に、俺は既視感を覚えた。
いや、一ヶ月前に俺が彼女がいると口を滑らせた時とほぼ同じ反応だ。少なくとも今この部屋にいる人間は、俺に彼女の顔まで知っているはずなのだが……。
「先輩、写真~! 早く見せてくださいよ~!」
後輩の女の子にせかされ、俺は携帯電話を取り出す。
一ヶ月前にもこいつに写真を見せてくれとせがまれた。そして、出した携帯を奪われ、彼女との写真を部署全体に回覧された。だから、俺に彼女がいることも、俺の彼女の顔もみんな知っているはずだ。それなのに、何なんだこの反応は。
わからないまま、とりあえず画像データを開こうとすると、視界の隅ですっと手が伸びるのが見えた。慌てて後ろに飛び退くと、後輩が「ちっ」と舌打ちをする。
俺の携帯電話を奪う気満々だった後輩に、別の意味で背筋が寒くなる。
どういうことなんだ?
俺は夢でも見ているのか?
手にした携帯電話に表示されているのは今日の日付だ。一ヶ月前ではない。
「写真! 写真!」と騒ぐ後輩の言葉に促されて、ひとまず画像フォルダを呼び出すと、
「…………え?」
「先輩、どうかしたんですか?」
「いや、その……今日は急ぐから!」
そう言って俺は部屋を飛び出した。「明日必ず見せてくださいね~」と声が聞こえてきたが、それどころではなかった。
目に付いたトイレに飛び込むと、個室に入り携帯の画像データを見る。
彼女の写真が一枚もなかった。
何かの拍子にデータをうっかり全消去してしまったわけではない。彼女が写っている写真だけ、俺が撮ったはずの彼女の写真だけがないのだ。
(どういうことだ……)
ハッとしてメールボックスを呼び出す。
ない。彼女から来たメールも、彼女に送信したメールもない。他の知人とやり取りしたメールはあるのに、彼女とのメールだけがない。それどころか着信などの履歴の中にも彼女の名前がない。
(まさか……)
恐る恐る開いた携帯のアドレス帳にも、彼女の名前はなかった。
その日、俺が自分のアパートに帰ったのは夜遅くだった。
携帯電話のことは何かの間違えだと自分に言い聞かせながら、俺は彼女との待ち合わせの場所に向かった。だが、二時間待っても彼女は現れなかった。
彼女が約束を忘れたのだろうか。それとも俺が日時を間違えたのか。
(迎えに行かないと……)
そう考えて、俺は愕然とした。
彼女の家も勤め先も、俺は知らなかった。
彼女が俺の部屋に来ることは何度もあったが、俺は彼女の家がどこにあるのか知らなかった。
「そうだ! 俺の部屋だ!」
帰り着くなり、俺は部屋中を探し始める。
何度も泊まっているので彼女の着替えや忘れ物なんかが俺の部屋にはいくつもある、はずだった。
「…………ない。ない、ないないないない! どういうことだ!」
部屋中の荷物をひっくり返して、俺は叫んだ。
彼女の着替えも、彼女が料理の時に使っていたエプロンも、買い足した茶碗や箸も、今朝洗面所で見たはずのピンク色の歯ブラシも、彼女が使っていたすべての物が消えていた。
(まさか、あれもか……?)
急いで机の引き出しの奥を探る。
出てきた小さな箱に、俺は少しだけほっとした。
引き出しの奥にしまってあった箱の中身は、大きさが違う二つの指輪だ。彼女の誕生日に渡そうと内緒で買ったペアリング。
さりげなく彼女からサイズを聞き出し、恥ずかしいのを我慢して一人で宝飾店に入り、二時間も悩んで買った指輪だ。
(……まさか俺は、いもしない恋人のために指輪を買ったのか?)
ふとした疑念が、俺の心に広がる。
それをふり払うように箱のふたを開けると、中には指輪が一つだけ。
俺の指輪だけが、そこにあった。
「そりゃ、宇宙人の仕業だな」
次の日の夕方、居酒屋に友人の山崎を呼び出して話を打ち明けると、彼はあっさりとそう言った。
「宇宙人がお前の彼女を誘拐したんだ。お前の彼女はきっと美人なんだろうなぁ。だから宇宙人にさらわれて、それがバレないように隠蔽工作を……って何か変だな。そうだ。彼女が宇宙人だったんだ。地球の調査に来ていたけど任期が終わって母性に帰らなければならない。だから自分がいた証拠を消すためにだな……」
「…………」
「知っているか? 最近世界中でUFOの目撃情報が急増しているんだぞ。もちろん日本でもだ。だから、お前の彼女が宇宙人だったという可能性もゼロでは……」
「…………山崎、怒るぞ」
低い声でそう言うと、山崎はばつが悪そうに頭をかいた。
「悪い悪い。茶化すつもりはなかったんだ。さすがの俺でも信じられなくて、その……すまん」
謝る山崎に、俺はため息をついた。
こいつが真顔で突拍子もない話をするのはいつものことだ。
それに、こいつに相談したのは確かめたかったことがあるからだ。
山崎は何度か俺の彼女に会ったことがある。
(それなのに、こいつも彼女のことを覚えていないのか……)
うなだれる俺の肩を、山崎が叩く。
「元気出せよ。とりあえず気分転換にドライブにでも行ってみるか? 最近UFOの目撃情報が続いている場所が割と近くにあってだなぁ……」
と山崎が口にした地名に、俺は顔を上げた。
「山崎、頼む。今度の休みに、俺をそこに連れて行ってくれ」
恥ずかしながら、俺は運転免許を持っていない。
だから、一ヶ月前のドライブでは彼女が運転していた。
彼女が運転する車の助手席から見た風景を、今度は山崎が運転する車の助手席から俺はぼんやりと眺める。
そう。山崎がUFOの目撃情報が増えていると言っていたのは、前に彼女と一緒にドライブで来た場所だった。
別に山崎の戯言を信じたわけではない。
ただ、彼女がいたという証拠を何でもいいから見つけたかった。
あの日から、彼女からの連絡はない。
彼女が俺の前に現れることもない。
そして、彼女を知っている人間も見つからない。
――本当に、彼女は存在していたのか?
俺が彼女がいると思い込んでいるだけではないかと時々不安になる。
そんなはずはないと自分自身に言い聞かせながらも、俺の心は揺らいでいた。
「着いたぞ」
そう言って山崎が車を止めたのは、小高い丘の上の駐車場だった。
見晴らしが良く、彼女とのドライブの帰りにも立ち寄った場所だ。
すでに陽は沈み、薄暗くなった空には星がいくつも輝き始めている。
山崎がカメラや三脚などの機材を車から降ろしている間、俺は近くのベンチに座り、夜の闇に包まれようとしている山並みを眺めていた。
あの時は、彼女と二人でこのベンチに座っていた。
『また二人で来ような』
俺の言葉に、彼女はにっこりと微笑んだ。
微笑んだだけで、彼女は何も言わなかった。
てっきり彼女も俺と同じ気持ちだと思っていたのだが、ひょっとして彼女はこの時からすでに俺の前から消えるつもりだったのか?
いや、彼女が自分の意志で姿を消したとしても、何故誰も彼女のことを覚えていないんだ?
本当に彼女はいたのか?
俺の頭の中だけでなく、この現実の世界に。
(いた! いたんだ! 彼女は絶対にいたんだ!)
俺は持っていた指輪を握りしめる。
小さな硬い感触を自分の手のひらに刻むように、強く握りしめる。
(俺が彼女の存在を信じなくてどうする! しっかりしろ!)
そう自分自身を奮い立たせた時だった。
「おい、鳴瀬! 空を見ろ、空を!」
興奮した山崎の声に、俺は顔を上げた。
夜空に広がる無数のきらめきに、目を見張る。
白い光が降り注ぐ中、俺の意識は途絶えた。
※ ※
自分の研究室でデータを入力していると、ガチャリと音がした。
画面に顔を向けたまま、私は入口に目を向ける。
よう、と気さくなあいさつをしながら入ってきた男に、私は迷わず持っていたカップを投げつけた。金属製のカップは男の頭の横をかすめて入口近くの壁にぶつかる。
「ずいぶんと手荒いあいさつだな」
警告を無視してテリトリーに入ってきた男に、私は問いただす。
「何の用?」
「それが久しぶりに会った恋人に言うセリフかよ」
「元恋人よ。間違えないで」
そう。私はこの男と婚姻を前提に付き合っていたことがある。
別れた原因は、彼の心変わりだ。
――しばらく距離を置こう。
――君が嫌いになったわけじゃないんだ。
――君には俺よりも他にもっと相応しい相手がいる。俺なんかと付き合って、君の時間を無駄にするわけにはいかない。
そんなきれい事を並べ、私の気持ちも考えずに去っていった男は、次の日には別の女を口説いていたらしい。
そんなことはきれいさっぱり忘れたように、男はするすると私に近寄ってくる。
「連絡を取ろうとしたらいないから驚いたぞ。開拓予定地でずっと現地調査をしていたんだってな。長期任務、ご苦労さん。ん?」
男の視線が私の胸に向けられる。正確に言えば、私が首にかけている物にだ。
「何だ、これ? 調査先で見つけたのか?」
「触らないで!」
私は身をひるがえす。
首のチェーンに通した小さな金属製の輪が揺れた。
「悪いけど、帰ってちょうだい」
「何だよ。つれないなぁ」
少しムッとしている男に、私は言う。
「どうせ他の女に婚姻を断られたから、私のところに来たんでしょう? 私がいない間に何人の女にふられたの? 五人? 十人? それとも二十人?」
私よりもいい女を探すために、この男は私と別れた。
そう。私よりもいい女はたくさんいる。けれど、私よりもいい女がこの男を相手にするとは思えない。以前の私なら、怒りながらも彼を受け入れたかもしれないが、もう遅かった。
「ああ、そうだよ。お前以外の女は誰も相手にしてくれなかったんだよ!」
開き直った男は、私に顔を近づける。
「俺もお前もそろそろ婚姻しないとまずい時期だ。俺と別れてからすぐに現地調査に行ったんだ。お前に相手を探す時間なんてなかったはずだ。もう時間がない。なあ、俺にしろよ。それがお前のためだ」
かつて私のためだと別れを切り出した男の言葉に、私は笑った。
そして、きっぱりと言い放つ。
「お断りよ」
「後悔するなよ!」
ありふれた捨て台詞を残し、男は部屋を出て行っ