父の思い出 庭の女、イレブン
庭の生け垣に黒い影が揺らいでいた。立ち上り、縦横に広がりながら、少しずつ形を成していく。白いスカー
トとハイヒールを履いた足が見えた途端、俺は縁側をかけ出していた。子供だった俺は、父の姿を探す。座敷でテレビを見ている母の向かいに寝転がり、父は煙草を呑んでいた。
「お父さん! 変なのがいる」
「どこ?」
父は煙草を灰皿へ押しつける。
「庭」
俺の話を訝るでもなく、父は縁側へ付き添ってくれた。俺と父のあとを追ってきた母は庭を眺め、首を傾げる。
「誰もいないよ?」
母は、俺の顔を覗きこんでいた。やおら置き放しのサンダルを突っかけ、父が庭へ降りる。迷いなく柿の木の根元まで歩いていった。膝を折って屈み込み、拳を握ったかと思うと地面を軽く叩き始める。それと同時に影は土の中に沈でいく。母の戸惑いを他所に俺は呆気にとられ、父を見つめていた。
「十一回。これで、もう大丈夫」
父は笑顔で俺に、そう言った。
それから、俺はたびたび、あれを見た。あれは決して家の中には入ってこない。ただ庭の一角に佇んでいた。
ハイヒールを履いた格好の良いふくらはぎ、服装はさまざまだ。上半身は黒く滲んでいる。頭部は髪に覆われていたが、長くも短くも見えた。顔はかげり、全体にうごめいていて判別しがたい。いくつかの影が折り重なりながら、ひとつの像を結ぼうとしているようにも見えた。
あれは俺を好かないらしく、近づいてくることはない。父に頼めば、先日と同じ方法で追い払ってくれた。影を沈めた父は苦しげに目を閉じ、縁側に座ったまま小一時間、休んでいる。この調伏とでもいうべきものは、父をあきらかに疲弊させていた。
「お父さんが死んだら? 死んだら、あれ。どうするの?」
恐ろしくなり、俺は父に尋ねる。
「どうもしなくていい」
「いいの? 何もしないで?」
「うん。そう」
俺は、あれを見かけても父に伝えなくなった。
「ここでお父さん。変なことしてたよね?」
俺は、母と二人で庭の柿の木を仰いでいた。
「うん」
「寂しい?」
母が覗きこんでくる。子供だった俺は、大学生になっていた。
「そうでもない。母さんは?」
自宅を含む周辺地域に市街化の事業計画が持ち上がっている。母は市から補償金を受け取り、土地を移譲する意向だ。俺も異存はない。
「寂しいけど、学費のこともあるし。生活を変えるのもいいかなと思ってる」
父が急死し、金策にあぐねている矢先の幸運だった。
「お父さんの部屋を片しちゃうから、欲しいものがあったら持って行って」
頷きながら俺は庭の生け垣に目をやる。あれが、いた。こちらへ向かってゆるやかに近づいている。上半身は暗い色に沈み、髪が揺らいでいる様子だけがうかがえた。
「母さん。あれ、見える?」
「あれって?」
俺が指さすほうを眺め、母は首を傾げている。
「……中に戻ろう」
「え、でも?」
「いいから」
驚いている母を急かして縁側を上がった。あれは、ハイヒールを履いた足を動かすことなく、柿の木の傍まで移動する。自ら地面に潜っていった。
父の部屋には、仕事関係の書籍、ノートやメモの類、衣類、文房具がそれぞれに片付けられていた。埃はない。母が掃除しているのだろう。
俺は読めそうな本を二、三冊、手に取った。事務机の引き出しを当てもなく引っかきまわす。ほどなく型の古いデジタルカメラと未使用の座席指定券が二枚、出てきた。デジタルカメラは、電池が切れているようで電源は入らない。
仕方なくパソコンを起動し、メモリーカードを差し込む。中には十六枚の画像データが納まっていた。何ということはないスナップ写真である。犬や風景の他は、教室で撮った写真のようだ。中学生と思しき制服姿の男女が数人ずつ写っている。最後の一枚は、十三人の人間が横並びになっていた。みな手にカードを持っており、そのうちの一人だけが中年の男である。教師だろうか。
「紅茶、淹れたから」
声をかけ、母が部屋に入ってきた。俺の脇にマグカップを置く。
「ありがとう」
「具合はどう? さっきは、真っ青だったよ?」
俺は、あれの挙動に動転していた。顔色を失っていたのだろう。
「……うん。ちょっと頭が痛かった」
「そうなの? 熱は?」
「ない」
即座に答えた。
「それなら、いいけど。そういえば、お父さんも頭痛持ちだったね」
父は、調伏した際の不調を母に頭痛と説明していたのだった。
「これ。お父さんじゃない?」
画面に表示されている写真を母が指さす。男子中学生が、同級生と思しき少年と肩を組んでいた。
「細いし、若いね。顔は、あんまり変わってないけど」
俺にとっては別人である。
「そうだ。この間、おまえのいない時に河野屋さんが来たのよ」
庭木の手入れを頼んでいた造園業者だ。
「それで、あの柿の木を売ってくれって言うの。なんだか珍しい木で枝ぶりもいいんだって」
「売ればいいじゃない」
「そう思う? どうしようかと思ってたんだけど」
市が整地してしまうのである。そうなれば、木もへったくれもない。
「じゃあ、話を進めるね」
母は早速、玄関口で電話をかけていた。
「すぐ帰ってこれる? 私、一人じゃどうしていいかわからなくて」
母から連絡があったのは、デジタルカメラを発見してから二週間ほど経った平日の午後だった。
「帰れるけど」
「良かった。なんだか変なことになちゃったのよ。なるべく早くね」
明日の講義の予定を確認し、大学を出る。空に飛行機雲が流れていた。
自宅の庭で俺は、ようやくあれの全貌を目にした。
すらりとしたふくらはぎとハイヒール。俺が知っていたのは、そこまでだった。ふっくらした二の腕と美しい掌、指は、とても長い。上向いた尻を見ても体型はあきらかにコーカソイドだが、胸のサイズと顔立ちは日本人よりだ。
「気味が悪い」
母は身震いしている。
「俺たちもビックリしましたよ。それじゃ、息子さんも心当たりはないんですね?」
「ありません」
マネキンへブルーシートをかけ直している造園業者に俺は答えた。マネキンは、根元の掘り出し作業中に見つかったのだという。なぜこんなものが庭に埋まっていたのか。皆目、謎だ。
「どうする?」
困惑した顔で母は俺を見上げている。
「捨てるしかないよ」
「そうだよね」
作業を再開する造園業者を残し、二人で縁側へ上がった。
庭に横たわっているだろうマネキンの姿が頭から離れない。
マネキンの足とハイヒールは、あれと同じだった。だが、相違点もある。マネキンは何か所にもわたって、英数字が落書きされていた。
気を紛らわそうとパソコンを起動する。差し込んだままにしていたメモリーカードの中身を確認した。データは無事である。その時になって俺はデータが分割されていることに気がついた。
一覧が画面に表示されている。ホルダーには、十枚の写真が納まっていた。どの写真にも同じ少年が写っている。父が肩を抱いていた少年と同一人物だと思い至ったのは、かなり時間が経ってからだ。
彼は裸で教室に佇んでいた。体のいたるところに文字が書かれている。すべて卑語、罵倒だ。劣悪な絵や記号も散見される。写真は、さまざまな角度から撮影されていた。中の一枚の彼の表情を何と表現すればいいだろうか。
カメラは正面から彼を捉えていた。彼は目じりを下げ、口角を上げている。笑顔を作ろうと果敢に挑んでいた。しかし、頬を流れる涙は、その努力を完膚なきまでに裏切っている。
俺はホルダーを閉じた。デジタルカメラの入っていた引き出しを探り、列車の座席指定券を二枚、取り出す。先日のホルダーを改めて開いた。男女が立ち並んでいる写真を拡大する。彼らが手にしていたカードは、座席指定券だった。データを携帯端末に移し、庭へ出る。ビニールシートを剥ぎ、マネキンの傍に屈み込んだ。
英数字は全部で十一か所、マジックで書かれている。そのひとつひとつを俺は、写真と照らし合わせた。十三枚の指定券のうち十一枚の座席番号と、英数字は一致している。除外されている二枚は、父と少年が掲げていた指定券である。引き出しにあった未使用の指定券と同じものだ。
父は、いったいどんな男だったのだろうか。朴訥とした父の笑顔が白茶けていく。
いつの間にか目の前にあれが立っていた。マネキンに書かれていた英数字が震え、ほどけて、あれの足を這い上がっていく。あれの上半身は、以前より鮮明だ。服装は白いワンピースに固定されている。肩から上は、やはり暗く沈んでいるが、英数字を取り込むたびに像を結び、男女の姿が浮かび上がっていた。それは、デジタルカメラに納められていたスナップ写真の映像である。
英数字をすべて吸収し、あれは滑るように庭を横切った。直立の姿勢で生垣を飛び越える。そのまま街灯の点る電信柱を過ぎ、夕闇に紛れて見えなくなった。
ブルーシートをかけ直し、俺は父の部屋に戻った。携帯端末の写真を削除し、メモリーカードをスチール製の定規で叩き壊す。座席指定券は細かく裂いてごみ箱に捨てた。(了)