更新履歴
- 2013/04/13 23:46:06
- 2013/04/13 23:45:03
- 2013/04/13 23:41:12

　長年にわたる我が家の実質的権力者だった祖父が亡くなった。蒸し暑い夏の朝だった。
「親父には悪いけど俺はホッとしたよ」
　通夜の後の寝ずの番で叔父が悪びれもせずに零したその言葉は僕の耳に残って離れない。大して家に寄り付きもしないような叔父さえそう言うぐらいだ。父や母の苦労、それからの開放感は計り知れない。
　思えば祖父は奇妙な人だった。僕が物心つく頃にはすでに御隠居の身分だったはずだが、毎日早朝に起き、襟を高いシャツをいつも身につけていた。性格は几帳面かつ神経質でやれ味噌汁が辛いの甘いの、テレビの音が大きいだのと大声で喚くような厄介な所があった。
　僕が奇妙に思うのは両親の反応にもあった。別に祖父は大きな財産を持っているような身分ではないのに父は祖父に敬服、というより臣従しているかのように見えたのだ。その父に嫁いだ身である母も祖父の言動について釘を刺すような事は僕の記憶上一度もなかった。
　祖父の葬儀は僕の想像通り寂しいものだった。現役時代にはどこかで教師をしていたと聞いたことがあるが、その縁での参列者など一人も来ず、僅かな親族演者が居並ぶだけのいたって簡素な式だった。葬儀社の人間に対して徹底して金はかけない事を言い含めていた父の姿はどこか愉悦のような影さえ見えた気がする。
　男手がないからと僕が呼ばれた。何かと思えば棺を担げと父が言う。僕は祖父の事が嫌いだったから、正直言って気味が悪かった。ほとんど厭々といった態で父や叔父らと棺を担ぎ出すと丁度雨が降ってきた。べちょりとして妙に粘っこい雨だった。
　到着した火葬場は混んでいた。人口二万人程度の田舎町なのに混むほどに人が死んでいるのかと思うと不吉な心地になる。父と叔父は棺を焼き場に運びこむと早速待合室のソファでビールを呷っていた。
「なあ兄貴、これはどうする？」
　叔父が煙草をくゆらせながら懐から出した紙切れに僕の目線は吸い寄せられた。ひと目では何かサッパリわからない、子供が書いた落書きにしか見えない。
「これか」
　父は三杯目のビールをグラスに注いでいた。普段は殆ど酒を飲まない父が速いペースで飲んでいる。実の父が死んだのだから酒を飲んでも不思議ではない。父は三杯目を傾けると
「燃やせ」
　そう鋭く言い捨てた。
「いいのか？　これは……」
「いい。燃やせ」
　普段の父らしからぬ粗い口調に叔父でさえ怯んでいる様子だった。
「父さん。それ、僕にも見せてよ」
　好奇心と不安に押し出されるようにして僕は呻いた。叔父が素早い動きで僕の目から紙切れを隠そうとする。それを父の手が制した。
「見せてやれ」
　父の言葉に叔父の目が細くなった。今までに見たことのない表情だった。
「…いいのか？」
「あいつは死んだんだ。そんな紙切れ、何の意味もない」
　父の声は冷たいという温度を通り越していた。祖父を『あいつ』だなどと呼んだ事は一度もなかった父だ。僕は殆ど慄然としていた。
「いくらでも見ろ」
　ソファから腕を伸ばして叔父が紙切れを寄越した。指でそれを摘むと雨が降っていたせいか、それはうっすらと濡れていた。
　紙切れに書かれていたものはやはり落書きだった。星にハート、水滴に三日月のマークが木の枝の先に括りつけられているようにも見えたが、意味を引き出そうとする僕を拒むような無味とした描画はそれ以上のイメージを喚起してはくれなかった。
「……何なのこれ？」
　失望混ざりにつぶやく僕に叔父が「けけ」と笑った。
「わからないならそれでいい」
　父はそう言うと僕の手から紙切れを引ったくると叔父のライターを点け、燃やしてしまった。紙切れはゆっくりと灰皿の中で塵になっていった。
　やがて僕たちは祖父の遺骨と対面した。白く小さな骨の集合となった祖父に僕は特別な感慨のひとつも持てなかった。それから時間が過ぎてゆくと僕の記憶からあの意味深な紙切れの事は忘れられていった。
　
　紙切れにあったあの落書きの事を風呂の中で思い出したのはそれから一ヶ月が経過した夜だった。何の気なしに鏡で見た僕の肩に星のかたちをしたアザがあったのだ。
　それは全ての事を一気に氷解させる切っ掛けとなった。
　死んだ祖父には水滴を象ったアザが手の甲にあった。おぼろげな記憶だが幼い頃亡くなった祖母の膝には三日月のアザがあったと思う。
　僕ははっきりと確信した。あの落書きは家系図だったのだ。そして家系図は僕の代で途絶えていた。それは別におかしもない未来のことなど誰にもわからないのだから。
　おかしいのはあの太陽のマークだ。太陽のアザなんて誰も持っていない。父に聞いたが答えてくれなかった。父が祖父を畏れた理由、あたかも臣従するかのように振舞わねばならなかった理由があのマークにあるのではないか。僕はようやく恐ろしくなってきた。
　――そして何より僕が恐ろしいのは父の尻にハートのタトゥがしてある事だ。親父、あんた何やってたんだ……。

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