てきすとぽいトップページへ
第32回 てきすとぽい杯
 1  4  5 «〔 作品6 〕» 7  12 
変身
 投稿時刻 : 2016.04.16 23:44
 字数 : 3334
5
投票しない
変身
永坂暖日


 ある朝、参座呉五郎が不吉な夢から目覚めると、布団の中で自分が大きな魚に変わてしまていることに気付いた。
 仰向けで眠ていたはずなのに、体は横向き。片目で見える景色はまるで魚眼レンズをのぞいているように湾曲している。
 鏡を見たわけでもないのに、呉五郎は魚であると確信できた。自分が人間である。それを当たり前のように知ているのと同じように、眠りにつく前までは確かに人間だたが、目が覚めてみれば、「おや、どうも人間ではなく魚らしい」と自然に思たのである。
 呉五郎は布団の上で、陸に打ちあげられた魚そのものの動きで、体をばたつかせた。魚なのだから、陸では息ができない。苦しかた。眠ている間は不吉な夢を見ていたものの苦しくなかたから、魚に変わてしまたのはキト目覚める直前だたのだろう。
 そんな冷静な分析をしつつ、呉五郎はまな板の上から逃げるように布団から起き上がた。どこからが下半身かよく分からないがとりあえず後ろ半分をばたつかせて、まな板の上に横たえられた体勢から、床面に対して垂直になる。なた瞬間、よこらせ、と胸びれで体を支えた。
 自覚があるので分かてはいたが、呉五郎の湾曲した景色の隅こには、魚のひれが見えた。ひれは薄くほんのりと赤く、反対側が透けて見える。
 だが、のんびり自分を観察しているひまはなかた。息苦しい。呉五郎は胸びれで頑張て床を這い、風呂場へ向かた。昨夜浴槽でお湯に浸かたのである。朝、洗濯をしようと思ていたから残り湯がある。
 お風呂に入て身が湯だつだろうか、という不安が刹那脳裏をかすめるが、どうせとくに冷めているだろう。それに身の色が変わるほどの温度なら、昨夜風呂に入た時点で全身やけどしている。それよりも息苦しくて仕方がない。
 呉五郎は浴槽の蓋を跳ね上げ、残り湯に頭を突込んだ。その直前、浴室の大きな鏡に映た自分自身の姿が目に飛び込んできた。
 冷めてお湯とも言えなくなたお湯の中に、えらまで突込む。これでなんとか酸素を取り込むことができる。
 ほと水の中で一息つき、呉五郎は一瞬だけ見えた自分の姿を思い浮かべた。
 少々曇た鏡に映た魚は、赤い鯛だた。身長――いや、今は全長というべきか――は、人間の時の呉五郎と同じくらい。鯛としてはありえないほど巨大である。しかし、ま赤な鯛だ。めでたい。
 いやいや、そんなことを言ている場合ではない。今はとりあえず残り湯で呼吸を確保できたが、こうしてずと呼吸していれば残り湯の溶存酸素をすぐに消費してしまうのではないか。人間並みのこの図体では、すぐに酸素が足りなくなるに違いない。空気と接しているとはいえ、金魚ですら、水槽の中でぶくぶくと泡を発生させてもらているではないか。
 そうだ。水を足せばいい。
 呉五郎はひれで蛇口をひねろうとした。だが、大きなひれではうまく蛇口を掴めない。掴むことすらうまくできず、焦りが募る。こうしている間にも残り湯の中の酸素は減ていき、今度こそ窒息するかも知れない。そうなると余計に焦り、ますますうまくいかない。
 一度落ち着こう。呉五郎は蛇口から胸びれを話、深くえら呼吸をした。
 そのとき、電話の鳴り響く音がした。スマホの目覚ましか。いや、音が違う。これは、電話の着信音――
 今日は平日だ。不吉な夢にうなされて、目覚ましでも目が覚めず、もしかしてとくに出社している時間になていたのかも知れない。
 今、何時だろうか。目が覚めたら魚で息が苦しかたので、時計は見ていなかた。いつまでたても出社しないから、誰かが電話をしてきたに違いない。
 呉五郎は数回深えら呼吸を繰り返し、残り湯から頭を上げた。胸びれで這て寝室に戻ると、枕元に置いていたスマホに胸びれを伸ばす。やはり会社からの着信だた。
 ところが、胸びれでいくら触ても、つるつる滑るだけでスマホは反応しない。水滴で濡れていくばかりである。このスマホの防水機能は大丈夫だろうか、と心配になたとき、電話は切れた。せかく息苦しいのを我慢してここまで来たのに、と思いつつ、仮に出られたとして、果たして今の自分は喋れるのだろうか、という疑問にぶつかた。
 声を出してみようかと思たが、息が苦しくなてきたので急いで風呂場へ戻た。しかし、水に浸かても、なんだか息苦しさが解消されない気がした。やはり、溶存酸素が減りつつあるのか。
 蛇口はうまく掴めない。しかし酸素は減る一方である。肺呼吸できるのなら、日常生活でこれほど酸素の心配をすることなどないというのに。鯛に変わてしまたものの、ちともめでたいことがない。
 いじけ気味になたそのとき、呉五郎は、金魚の水槽に入ているぶくぶくの代わりをすればいいことに気が付いた。要は、より多く新鮮な空気と水が接触すればいいのだ。すなわち、胸びれをばたつかせる。
 呉五郎は両方の胸びれで水面をバシバシと叩いた。賃貸アパートの風呂場は狭く、胸びれが浴槽の縁や壁に当たた。それでも、胸びれを大きく動かして水と空気をかき混ぜた。
 ところが、思ていたよりも息苦しさがなくならない。自分が激しく動いているからだ、と気が付いたとき、玄関チイムが鳴た。
「参座! いるんだろう!? なんかすごい音がきこえてたけど、大丈夫か!?」
 扉を叩く音に、男の声。聞き覚えがある。会社の同期だ。出社しない師電話にも出ないから、様子を見に来たのだろう。
 大丈夫だ、と答えようと顔を上げたが、呉五郎は声が出なかた。魚は喋れないらしい。
 同僚はなおもドア越しに呼び掛けインターホンを鳴らしていたが、やがて静かになた。
 諦めたのだろうか。いや、さきまで呉五郎が大きな水音を立てていたから、中に誰かがいるのはわかているはず。尋常ではないことが起きているのも察しているだろう。同僚の性格も考慮すると、このまま諦めて引き下がるとは思えない。
 アパートの向かいには、ここの大家の家がある。同僚もそれは知ている。大家は人の好い老夫婦で、平日の昼間でも家にいる。事情を話せば、合い鍵を出してくれるかも知れない。
 これはまずい。彼が呉五郎の同僚だとわかり、しかも呼び掛けても反応がないのに大きな水音がきこえる、となれば老夫婦は合い鍵を出すだろう。ひとしたら、警察も呼ぶかも知れない。呉五郎ならば、万が一のことも考えて通報する。同僚もきとそうするだろう。
 魚に変わてしまているのが見つかたらどうしようか。呉五郎の最大の心配はそれだた。ある意味、死んで見つかるよりも衝撃的である。
 いや待て。ドアにはチンをかけてある。たとえ合い鍵でドアは開いても中へは入れない。いやしかし、警察ならチンを切る道具とか持てくるかも知れない。
 そうなれば、魚の呉五郎が見つかるのは時間の問題だた。水の中にいなければえら呼吸できないのだから、隠れることもできない。
 どうして魚になてしまたのかもわからないのに、どうして自分の家なのに隠れなければと考えなければならないのか、とか、まずいと思うのはなんだか理不尽ではないか、と誰に向けていいのかもわからない愚痴ばかりが出てくる。
 やがて、ドアの向こうから騒がしい気配が伝わてきた。複数の話し声が聞こえる。インターホーンが鳴り、同僚は見知らぬ声が呼び掛けるが、呉五郎にはどうすることもできない。インターホーンの受話器ぐらいは取れるかも知れない。だが、声は出ないのだから、中の様子が尋常ではない、これはおかしい、と外にいる彼らによりいそう確信させるだけである。
 鍵を開ける音がして、ドアの開く音がつづく。チンの引かかる音。下がていてください、という見知らぬ声。
 ああ、とうとう踏み込まれてしまう。見つかてしまう――

 参座呉五郎が不吉な夢から目覚めると、布団の中で汗だくになていた。枕元のスマホを見ると、24時間のちうど三分の一、8時間眠ていたことがわかた。
 よく眠たわりに、内容は覚えていないが不吉な夢を見た気がする。
 それよりも、目覚ましをセトし忘れたのか、八時間も眠てしまた。遅刻寸前である。これはまずい。
 呉五郎は飛び起きると、風呂場へ駆け込んだ。
← 前の作品へ
次の作品へ →
5 投票しない