僕らは亀裂の入った事業所の前で亡霊の様に立っていた。空調システムが暴走し破裂しそうに唸りを上げている。今や携帯に縋る者は一人としていない。全ての通信会社が圏外となっているからだ。
 東日本大震災。皆の頭は天井から崩れ落ちた石膏で白髪だ。僕らは、唯々家族の安否が気になり解散の指示を待っていた。
「石巻に津波が来てるぞ！」車載テレビを見ていた杉本部長が叫んだ。
皆で駆け寄り、中継されたその映像に息を呑んだ。僕らは知らなかったのだ。ほぼ時を同じく地元仙台にも津波が押し寄せていた事を。
暫くし、全員に自宅待機が命ぜられた。
「佐々木どうするんだ？」声の主は部長だ。
「行けるとこまで行ってみます」
彼は無言で僕の肩を叩いた。労わりの言葉も出なかったのだ。石巻の報道後、仙台への津波来襲が報じられていた。その映像はまさに自宅がある街を呑み込んでいたのだ。それを見て全てを諦めた。家族、家、そして多くの知人達。
 車を出したが渋滞に巻き込まれた。信号が機能を失っているのだ。車を諦め乗り捨てよう。頼れるのは自分の足しかない。絶え間なく響くヘリの轟音。サイレンも飛び交う。僕は海側から内陸に避難しようとする人々と逆行して歩いた。渋滞の車中、赤子を抱いた母親の姿に胸が締め付けられる。母と妻は逃げる間も無く波に呑まれたに違いない。天は無情に季節外れの雪を落とした。

「佐々木さんじゃないか」声を掛けてきたのは、地元消防団員の佐藤さんだ。
「街に行くのか？やめとけ」そして佐藤は高速道路の土盛りを指した。
「陸の防波堤になったんだ。でなきゃここも水の中さ」
「それじゃ」佐藤は被りを振った。
「あの向こうは地獄だ。どれだけの遺体を見たか憶え切れない」佐藤は語った。自分の家族も諦めたと。
僕は体が震え始め、堪えていたものが涙となって流れだした。佐藤は肩を抱いてくれ自らも涙を流す。
「小学校の生徒は屋上に避難しているそうだ。無線で情報が入っている」
翔太！僕はやはり冷静さを欠いていたのだ。この時間、息子は学校にいる筈だ。一歩踏み出そうとすると、佐藤が腕を掴んだ。
「学校も今は水没している。避難地域だから立ち入りできんぞ」
僕はそれに答える事もせず歩み出した。

 間近で見るその海は黒い。津波は海水と共に大量の泥を運んだのだ。小学校を望む境界線には警官が配置されており、我が子を心配する親達の対応に追われていた。翔太がんばれ待ってるんだぞ。   

 闇が訪れ、警備の狭間を縫って水に足を入れた。数歩進むと泥に足を取られる。僕は革靴を履いていた。足を抜こうとすると靴が脱げてしまうのだ。ワイシャツのボタンを外し緩めて、そこに靴を入れる。歩く事を諦めて上澄みを泳ぐ事にしよう。学校に着くまでに見たもの、触れたものについては語りたくもない。
 漸く、校舎の階段まで辿り着いた。靴を履き直し階段を上がる足は棒の様だ。精も根も尽き果てていた。屋上に近くなると子供たちの声が聞こえて来る。重い鉄扉を押し開けると、沢山の子供たちが毛布の上に座っていた。
「翔太！」僕は叫んだ。子供たちの中に我が子を探す。
「お父さんだ！」立ち上がった翔太は胸に飛び込んで来た。
「翔太がんばったな！もう大丈夫だぞ」
「お腹空いちゃった」もうちょっとの我慢だと頭を撫でる。
「お母さんは？」
「翔太に美味しいもの作ってくれてるよ」
疑う事も知らない翔太は笑みを浮かべた。この笑顔、この笑いがある限り僕は生きていける。翔太を抱きしめながら妻に誓った。お前の分まで翔太を守ってみせると。

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