【BNSK】2016年8月品評会  
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海が聞こえない
投稿時刻 : 2016.08.14 23:19 最終更新 : 2016.08.14 23:39
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海が聞こえない
古川遥人


 それは初恋だたのだろうか。当時の僕からしたら、それを初恋と呼んでしまうことに強い反発を覚えただろうが、三十歳になた現在から見れば、あれも一つの初恋の形であり、青春の思い出と呼んでいいのではないかと思える。
 佐藤鳴海は、僕の従姉だた。「なるみ」です、と自己紹介すると必ず苗字と間違えられるので、いつもフルネームを名乗るようにしていると言ていた彼女の名は、確かに珍しい。だが、夏を感じさせるエネルギな彼女にふさわしい名前だと、僕は彼女の両親のネーミングセンスに脱帽したくなる。
 海が鳴ている。
 もちろん両親としては、さざ波の音を静かな浜辺で聞いているような、詩的な感性をそこに込めたのだろうが、実際の鳴海は、嵐の海の荒々しい波音のような女の子に育てしまた。そう。一言で言てしまえば、鳴海は台風の海のような奴だた。
 僕が十歳の頃の、夏休み。
 そこで僕は鳴海という存在を強く意識させられたのかもしれない。
 七月の終わりごろだた。両親と兄は、僕を置いて徳島から東京へ向かた。それは決して、僕が疎まれていたという訳ではない。どちらかといえば、僕が彼らを疎んでいた。だから、そのような形になた。
 兄は幼い頃からバイオリンを弾かされていた。兄は自分からバイオリンを手に取たと誇らしげに語るのだが、僕から見ればそれは親の見栄で弾かされているにすぎなかた。しかし親の見栄に、兄は応えられるだけの感性と才能を持ていた。兄は極度の負けず嫌いで、繊細な人間だた。自分が他人より劣ていることに我慢がならなかたし、人間関係が上手くいかなかたり、自分の努力が思たほど認められなかたりしたら、こちらが鬱陶しいと思うほどにひどく傷ついた。そんな繊細で負けず嫌いの人間に、クラシクという音楽は向いていたのかもしれない。兄は他人よりも人一倍努力し、その繊細さによて課題曲を深く理解することに長けていた。そして兄は上達するごとに傲慢になていた。無意識に人を馬鹿にせずにはいられないような、歪んだ性格の人間になていた。
 僕は物心ついた時から兄が大嫌いだた。僕に接するときの言葉に端々に、その態度の端々に、僕を見下すものが感じられたのだ。例えば僕がアニメを見ている時、兄は「あーあ、いいよな。お前はアニメなんか見てる時間があて。俺はこれか課題曲の練習しなきいけないのに」と、またく僕の方を見ないで冷蔵庫の方を見ながら大きな声で言たり、僕がゲームをしていると、「またく才能のない人間てのは気楽でいいよなあ」などと、彼の優越感のはけ口として、僕は存在していた。兄の世界観は、完全に音楽の才能で決められているようだた。両親も、兄ほど露骨な態度でなかたにしろ、明らかに兄だけに期待しているようで、無意識に僕よりも兄の方を褒めたり、事あるごとに兄と比べて僕の出来の悪さを嘆いたり、そしてある時は完全に僕のことを無視することもあた。
 その十歳の夏休みも、恐らく兄のバイオリンのコンクールの全国大会だか何だか、はきりとしたことは覚えていないが、そんなものがあたのだと思う。親の見栄と兄の自尊心を鞄いぱいに詰め込んで、彼らは東京へ五泊六日の旅に出かけた。彼らも一応、僕に声をかけてくれたのだが、僕が行かないことを彼らも判ていたのだろう、夜中にこそり封筒の中を見たら、そこには三枚分のチケトしかなかた。もしあの時に、「僕も行く」と言ていたら彼らはどのような反応をしたのだろう。恐らく、ただ疎ましげな視線で僕を一瞥し、それからもともらしい理由を取り繕て、僕を留守番させたに違いない。それが判ていたから、僕は行くとは言わなかたし、彼らも四枚のチケトを予約しなかたのだろう。初めから東京に僕の姿などなかたのだ。
 そうして僕は一週間ほど留守番することになた。が、いくらなんでも十歳の子供一人で一週間を過ごすのは難しかたし、親もそこまでネグレクトまがいのことをするわけがない。僕は近くに住んでいる叔母の家に厄介になることになたのだ。
 留守番、初日。
 朝の十時ごろ、生来のだらしなさで休みの日は十一時近くまで寝ている僕の部屋に、彼女は現れた。そして寝ている僕の耳にヘドフンをかけ、爆音で音楽を鳴らした。その瞬間の僕の反応はどのようなものだたのか。覚えているのは、ただ何事が起こたのかという混乱で跳ね起き、そして目の前に鳴海の満面の笑みと白い歯が視界いぱいに映たことだ。そして彼女特有の香り。女性らしさというものを好まない彼女は、化粧をすることも香水をつけることもしなかたが、意外にも清潔というものに気を使う彼女は、肌が焼けて染みにならないように日焼け止めをしかりと塗ていたし、そして汗臭くならないようにしかりとフローラルの香りの制汗スプレーを吹きかけていた。そのことを指摘すると彼女の機嫌が悪くなるし、そういうところこそ女性らしいと指摘すると、マニアクな関節技を決められるので、一回指摘して不機嫌になられて以降は、僕は彼女のそういう部分をからかたりしないように心掛けた。でもやはり、彼女の印象といえば、満面の笑み、そして吸い込まれるような大きな瞳、白い歯、そしてほのかに鼻をくすぐる制汗スプレーと日焼け止めの香りだた。それは今でも変わらない。
 そうして混乱しながらもヘドフンを外し、寝ぼけながら見つめている僕に、彼女は訳のわからないことを言た。今となてみれば、それが僕に爆音で聞かせていた曲の歌詞だたと判るが、その時ばかりはとうとうコミニケーンすらできなくなたのかと、本気で心配したものだ。
「なにそれ」
 僕が尖た不機嫌な声で言うと、彼女は
「ミル・ガン・エレフント」
 と言て、ヘドフンを指差した。
「今流してる曲。ゲト・アプ・ルーシーていうの」 
「なにそれ」
「ロクンロール」
「なにそれ」
「うーん、ロクとは何か……。それは難しい問題だよ」
 本気で怒てやろうかと思たところで、彼女は笑いながら「ごめんごめん」と言て僕の首元に抱き着いてくるのだ。そうされると僕としては怒れないし、なんと言うのだろう、爆音で僕を起こすような無茶苦茶さが彼女の九十九パーセントを占めているのだが、そうやて無邪気に抱き着いてくる、残りの一パーセントの心を捉える何かが、僕が彼女を嫌うことのできない大切な要素だたと思う。
「少年、海へ行こうぜ」
 鳴海は、僕の手を引て無理やり起こしながら言う。
「せめて朝ごはんくらい食べさせてよ」
 僕がうんざりしながらそう言うと、
「そんなもの海の家でいくらでも食べさせてあげるよ」
 そう言いながら、力強く僕の手を引いた。こうなると、もう鳴海の吸引力に身を任せるしかなかた。僕が彼女に逆らて成功したことは一度もなかたし、彼女の勢いに乗て僕が嫌な気分になたことも一度もなかた。子供の時に台風がやてくると、やたらとわくわくした気分になたことを覚えているが、そういう意味でも鳴海は、僕にとての台風のように思えてならない。台風は無理やりに僕の周りの環境を無茶苦茶にしながらも、僕をどこかへ連れて行てくれる、そんな予感を感じさせたのだ。
 玄関先へ出てみると、そこには一台のバイクが停まていた。スクーターではなく、バイク。
「さあ、後ろに乗て」
 無茶苦茶だ、と思た。
 だて彼女は中学三年生で、免許を取れる年齢ですらないのだ。どこからこのバイクを入手したのか、まさか本当にこれを運転するのか、怖くて聞けなかた。冗談だよ、と言て頭を軽く叩いてほしかた。でも鳴海は、得意げにそのバイクに跨た。どうやらこれは現実で、僕はその無茶苦茶な台風に乗て海まで向かわなければならないらしい。この時は本当に死を予感していた。だてろくにバイクを運転したことのない女子中学生の後ろに乗るだなんて、客観的に見たら自殺行為だ。
「ねえ、これをどこから調達したのかとか、そういう野暮なことは聞かない。ただ一つ、安全に運転できるのか、それだけを聞かせて」
 震えを隠せない僕の声に、鳴海はヘルメトを被り、顔半分を隠すサングラスをつけながら、親指を立てた。
「なんとかなるでし
 これが彼女の口癖だた。ぶとばしてやりたかた。彼女と出会てから一万回はそう思わされてきただろうが、この時ほど強くそう思たことはないだろう。なんとかなるわけないだろ! 僕はそう叫んだ。だて明らかに運転したこともない中学生が、公後ろに子供を乗せて公道を走るだなんて、さすがにこの無茶苦茶さ加減に身を任せたくはなかた。僕は喚きながら訴えて、半ば泣いていたのだけれど、彼女は何が楽しいか、僕の神経を逆撫でするように腹を抱えて笑いながら「も、大丈夫だて。これくらい誰だてできるでし」と言うのだた。ぐずる僕を宥めながら彼女は僕を後ろに乗せ、そしてエンジンを噴かせた。その音は地獄への合図だた。でも一瞬だけ、なぜだろう。鳴海と死ぬのは悪くないかもしれない、と思たことを覚えている。その理由を明確に言葉にするのは、二十年たた今でもできない。でも死ぬ瞬間に、家族ではなく鳴海といれることは、当時の僕にとて幸せなことだたのかもしれない。
 そんな一瞬の幸せを置き去りにして、バイクはアスフルトの道を走り始めた。
 最初によろけた時点で、あ、本当に死を覚悟しなくち、と思ていた。そして両親やら、大嫌いな兄やら、クラスメイトやらへの、遺言のような言葉をずと考えていた。みなさんありがとう。僕はこのめちくちな女のせいで死にます。でも後悔はありません。だてなんだか、公道を走り始めたわくわく感、肌に感じる風、風景が後ろに過ぎ去ていくのを体全体で感じる感覚、それは悪くないんです。これをきと、君たちは感じることはできないでしう。僕にとての大事なものと、君たちにとての大事なものは違うのです。とくに兄なんかは、音楽という閉じた世界でもがきながら泳いでいますが、僕は台風に乗てあらぬ方向へ飛んでいくのです。そしてそれがすごく楽しいのです。そうやて風を感じながら彼女の後ろをついていく感覚はとても自由で、僕にはかけがえのないものなのです――そんなちとセンチメンタルな格好をつけた言葉を頭に浮かべながらも、気が付いてみれば、彼女はごくまともに運転しているのだた。
「鳴海。運転できてるじん」
「当たり前でし。こんなの自転車と変わんないし」
「いや、全然違うけど」
 鳴海の運動神経を侮ていた。いや、運動神経が関係あるのかわからないが、鳴海は初めてのことでも卒なくこなすことができる人だた。その辺も、鳴海に対する純粋な憧れがあた。
「でもさー
 信号待ちをしている時に、彼女は笑いながらそう切り出した。
「実を言うと、め練習したんだよね。これ大学生の先輩に借りたんだけどさ、その先輩と人のいない夜の山道とか公園で、すごく練習したんだよ。修一を乗せて海へ連れて行てあげたかたから」
 そうやて僕の名前を出してくれるところに、彼女の無邪気な優しさを感じるのだ。そしてそれと同時に、この時ははきりと意識できていたわけではなかたが、大学生の先輩という人に強く嫉妬してもいた。きと鳴海はその先輩が好きで、一緒にいたのだろう。僕は子ども扱いで、その人とは大人の付き合いをしているのだろう。アウトローな鳴海は、変わり者として評判で、まともじない人との付き合いも多い。それを言たら僕だてまともじないことになりそうだけれど、例えば三十歳を超えたバンドマンだとか、女性の入れ墨の彫師だとか、高校へ行かずに四年間カナダで過ごしていた人だとか、バイクで日本一周をしていた人だとか、そういう社会からはみ出していたり、あるいははみ出しそうな人と強く結びついている。その危うさを当時の僕は気づかなかたし、彼女も気づいていたのかどうかわからない。

 ふと気がつくと、バイクは彼女の通う学校の前に停まていた。夏休みだが、グラウンドでは部活動をしている生徒たちがちらほらいる。小学生だた僕にとて、中学校とは未知の場所で、僕よりもずと大人の者がうようよしている怖い場所でもあた。
 彼女は特に周りの目を気にすることなく路上にバイクを停め、すたすたと校門を通て行た。僕は慌てて後を追いかけながら、本当にこの女は無茶苦茶だ、先生に見つかたらどうすんだ、と気が気ではなかた。
彼女は誰も人のいないプールの方に向かて歩みを進めていた。僕たちは海へ向かていたのではなかたか。そんな当たり前の疑問も、鳴海には通用しない。彼女は気まぐれだ。五秒前に海へ行くと宣言しても、いつの間にか山へ向かているような女だ。プールに向かている分だけ、予定は順調と言ていい。
 そうして彼女はそのまま、女子更衣室の前にたどり着き、なぜか持ていた鍵を使て中へ入ていた。さすがに一緒に入るわけにもいかずに、更衣室の前でまごまごしていると、鳴海は扉から顔を出し、不思議疎な表情を浮かべて
「修一、何やてんの? 入てきなよ」
 と、言た。
 さすがに十歳にもなれば異性に対する感情も育まれていて、無邪気に女子更衣室に入ることなどできなかたし、そこに強烈な恥ずかしさを覚えたのだた。僕は首を横に振りながら、「入りたくない」と言た。が、鳴海は「なに一丁前に恥ずかしがてんのー、ウケる」と言いながら僕の手を引いて、無理やりに僕を更衣室に引たのだた。
「夏休み前に水泳の授業があてさ、普段はサボるんだけどその日だけは出なくちいけなかたんだよね。加藤がさー、あ、体育の先生なんだけど、すごいチラチラ女子の体を見るのね。も最悪だたよ。おまけに日焼け止めと制汗スプレーを入れてたバグをさ、ここに置き忘れたままにしちうし。なんか付きあわせちてごめんね」
 僕はきろきろと更衣室を見回しながら、鳴海の話に返事をした。塩素の匂いがしている。まだ性に目覚める前か、目覚め始めた頃だただろうか、その場所にいることに僕は不安と恐怖を覚えた。鳴海の話がうまく頭に入てこなかた。そうして僕は鳴海の手ばかりを見ていた。胸や脚ではなく、手ばかりをずと眺めていたというのは、僕がまだどうしようもない子供だた証なのかもしれない。
 彼女は不安に駆られている僕の方を振り返ると、真白な歯を見せながら、いきなりスプレーを吹きかけてきた。驚いて目を瞑ると、途端に強いグレープフルーツの香りが鼻を通た。
「いい香りがする男の子は、女の子にモテるよ」
 悪戯心を声に滲ませて笑う彼女に、僕もつられて笑た。
 蒸されるような暑さの中で、いつまでもグレープフルーツの香りがしていた。

 海へ着いたのはお昼を過ぎてからだた。お腹が減たと鳴海に言たら、私もペコちんだよー、とくだらない言葉を返されながら、海の家へ二人で入ることになた。昼食に焼そばを食べて、かき氷を食べて、それから僕らは浜辺へと繰り出した。僕は水着を持てこなかたし、鳴海は更衣室から持てきたスクール水着しか持ていなかた。さすがの鳴海も、スクール水着で泳ぐほどの無邪気さはなかた。僕らは浜辺に座りながら、打ち寄せる波を見て、砂に絵を描いて、照りつける日差しに焼かれるがままになていた。
「修一は大人になたら何になりたいの」
 波打ち際ではしいだ後に、浜辺に座り込んで、ふと鳴海はそんなことを聞いた。僕は考えながらも、遥か未来である十年後、二十年後の想像など具体的にできるわけもなく、ぱと頭に浮かんだ「普通の人」という言葉を口にした。
「かー、眠たいことを言てんじないよ。少年」
 鳴海は呆れたようにそう言て、握ていた砂を海の方へ投げつけた。
「じあ、鳴海は何になりたいのさ」
 そう尋ねると、彼女は口元に笑みを浮かべて
「倒れてる人がいたら、起こしてあげられる人になりたい」
 と言た。
 僕は思わず、なにそれ、と言て笑た。
「普通の人よりは素敵でし
 鳴海は少しむくれながらそう返す。
 どちもどちだた。結局、僕らは将来のビジンを明確に描くことなんてできなかた。しかしながら、それでも僕らがその日に口にしたことは、将来の自分の姿を的確に表していたのだから、偶然というものは面白い。僕は普通の人になり、彼女は倒れている誰かを起こしてあげようとする人になた。起こして、支えてあげる人。それが鳴海の人生だたのだ。
 僕らはそれから、いつも二人で遊ぶように、意味のない問答を繰り返した。
 ドーナツの穴は何で開いているのでしう。
 鳴海が答える
 その方がキトだから。
 太陽は、水平線に沈んだ後にどこに行くの?
 僕が答える。
 水星とデートしている。
 なんで枯れた草や木は元に戻らないの。
 鳴海が答える。
 失恋したから。
 好きな人が一番喜ぶ言葉はなんだろう。
 鳴海がそう訊いた。
 沈黙。
 僕は答えられない。
 波の音が僕らの近くによて来る。
 穏やかな波の音。
 グレープフルーツの香りはもう消えている。

 
 その夏の思い出の一ページ以後も、僕と鳴海はそれまでと同じように遊び、彼女に振り回され、そうでありながらもそれを楽しんでいた。今思えば、家族の中で孤独を感じていた僕を、鳴海は積極的に外へ連れ出そうとしていたのだと思う。彼女が言ていた、倒れている人がいたら、起こしてあげたい、それはまさにそのときに実行されていた。しかし起こされている側である僕が、それに気づいていなかた。もちろん、彼女の起こし方にも大きな問題はあたと思うが。
 そうして僕らの関係は変わらずに続き、それは鳴海が高校を中退して友人とアメリカへ行くまで続いた。彼女はアメリカで二年ほど過ごした後、とあるNPO団体に入て、各国の貧困の村へ行たりするようになた。それは「普通の人」になりたいと答えた僕にとてリアリテのない生き方で、「倒れている人を起こしてあげたい」と答えた鳴海にとては、それこそがリアリテのある生き方だたのだろう。いずれにしろ、僕らの道はどこかで分岐して、それぞれが全く違う道に進むことが、初めから決まていたのだと思う。
 僕が中学に入たばかりの時に鳴海はアメリカに行たから、その六年後だろうか、僕の大学一年の夏休みに、彼女はふらりと叔母の家に戻てきた。それまでもメールやらで連絡は取り合て近況は知ていたが、メール上の文字だけだと、上手く鳴海の存在がつかめなかた。なんというか、鳴海の無茶苦茶さや、一パーセントの心を掴む何かが、文字からは感じられないのだ。鳴海の良さは、目の前にいる鳴海に接した人じないと判らない。それは、鳴海がアメリカに行てから判たことだた。
 キルギスから戻てきたという鳴海に、その日に電話で呼び出されて、僕は駅前にある喫茶店で彼女と待ち合わせることになた。ド田舎の町の純喫茶には、ほとんど人がいない。それはあまり鳴海らしいチイスとは言えなかたけれど、あれから六年もたてば、人の考え方や思考だて変わることもあるだろう。僕は早速、その喫茶店に向かた。
 店内には、椅子に深く腰掛けながら新聞を読んでいる老人と、漫画のようなものを描いている痩せ細た青年と、疲れたような目で壁にかかた絵を眺めている幸薄そうな女性がいるだけだた。約束の時間の十分前だから、鳴海はまだ来ていないはずだた。彼女が時間通りに現れるような人間でないことは、僕は十分知ている。そう思て入り口近くの席に腰掛けると、絵を眺めていた女性がこちらを向いて、「こらこら、五年ぶりの再会にどんなボケをかましてんの」、と記憶の中で聞いたことのある声で喋た。鳴海だた。それは記憶の中にある印象と大きく変わていた。
「修一がそんなシルなボケをするようになるとは、六年の歳月ていうのは恐ろしいね」
 こちらの方が、六年の歳月で変わてしまた何かを大きく感じていると言いたかた。きらきらと輝いていた力強い何かが、鳴海から消えているように感じられた。もちろんそれは、久々に彼女と会たからで、先程の会話からすれば鳴海らしさは変わていないような気もするが、それでも六年前にバイクに僕を乗せて走ていたあの鳴海の輝かしさが、なぜかその外見から消え失せているように、僕には直観的に感じられるのだた。
 彼女はこんなきちりと化粧をする女性ではなかた。決してスカートなど穿く女性ではなかた。こんな疲れた目をしている女性ではなかた。しかし、それはただの僕の我儘な願望にすぎず、理想の押し付けに過ぎないのかもしれない。いつまでも僕が子供時代にとらわれ続けているだけなのかもしれない。


 後ろに鳴海を乗せて、僕はバイクに跨る。夏の夜は、バイクで風を切りながら、誰もいないシター街を突き抜けるのが気持ちいい。この風を切る感覚の楽しさを教えてくれたのは鳴海だた。その鳴海の姿が、もうどこかに消えてしまたように感じて、僕はそれを取り戻そうとしたのかもしれない。鳴海を海へ誘た。彼女は少しだけ戸惑た後で、短く頷いた。
「バイクに乗る男の子てモテるでし
 夏の夜の、草いきれの強い匂いを体全体で受け止めながら、僕は鳴海の声を聞いた。
「モテないよ。僕とは正反対の、明るくてバカ騒ぎができる奴の方がモテるよ」
「世間てつまんないね」
「おいおい、鳴海からそんな一般的な意見が聞けるとは思わなかた」
 思わず苦笑しながら、赤信号を突き抜けて、僕らは海岸へ降りるますぐな道を走た。

 僕が無造作に砂浜に腰を下ろすと、彼女もスカートの裾を気にしながら隣に腰を下ろした。そのまま数分間、僕らは黙て波の音を聞いていた。ゆらゆらとしたものがずと彼方まで続いている。
「恋をしているの」
 彼女は言た。
「私らしくないでし
 力なく笑ている。
 僕は何と答えたらいいのかわからなかた。
 六年も経てば人は変わる。それが良いか悪いかなんて、個人の主観でしかない。それでも、隣に座る女性は、僕の知ている鳴海とは違ていた。なぜか好ましく思えなかた。
「売れない映画を作る人なんだ」
 タイの農村で、売れない映画を作ている彼と偶然に出会い、恋に落ちたらしい。それから彼女は、NPO団体を脱退し、彼と同棲を始め、アルバイトをするようになり、彼のためにお金を稼いで、やりたくもない仕事をして、彼を励ましながら、彼の傍にいることに歓びを感じている。まさに、売れない映画のような物語を歩んでいた。誰にも見向きもされない、平凡な物語のヒロイン。しかし、それは鳴海であてはいけなかた。彼女が六年前に持ていた、きらきらとしたものはどこに行てしまたのだろう。まだ持ち続けているのだろうか。それともそれは、初めから僕の幻想に過ぎなかたのだろうか。
「私がいないと、彼は立ち上がれないから」
 ぽつりと呟いたその言葉に、僕は鳴海という人間を悟たように思た。倒れて駄目になている人を起こして、支え続ける人間であり続ける。彼女の幸せがそこにあるのだとしたら、彼女の向う先には不幸が待ている。少なくとも僕から見たら、普通の人から見たら不幸だと思えるようなことが。現にその映画監督は多額の借金を抱えながら、鳴海に依存して生きている。彼女はそれを幸せそうに語るのだが、僕にとてはそれが幸せとは思えなかた。僕は鳴海にもと幸せに生きてもらいたかた。あるいは、あのきらきらと輝いていたものを振り回して、世界中にいる僕のような人間を外へ連れ出してほしかた。しかし彼女の選んだ道は、倒れている人に引きずられながら歩き続けることだた。
「そうなんだ」
 僕にはそう言うことしかできなかた。あの時の彼女は、僕にどのような言葉を望んでいたのか。「普通」である僕に、どのような言葉を、行動を、望んでいたのか。なぜ僕を呼び出して、話を始めたのだろうか。そこには大きな意味があるようにも思えたし、僕の考え過ぎであるような気もした。あの時、僕が何か他のことを言えていたら、鳴海の人生を大きく変えるような言動をしていたら、と思うこともあるが、しかし過去の仮定など感傷に過ぎないのかもしれない。
 が、その惨めな感傷が心を癒すときだて、人生にはあるのだとも思う。惨めな感傷を積み重ねて、普通の人は生きている。感傷に溺れて、何かを発見するときだてある。世間で馬鹿にされるほど、惨めな感傷は笑われるようなことではない。僕らの人生が行きつく場所が、ろくでもない場所だたとしても、その感傷には必然的な意味あるように、僕には思えた。


 僕は砂浜に倒れこみながら、その時に言うべきだた言葉を今も探している。僕が倒れている彼女に、手を差し伸べるべきだたのではないか。彼女は世界中で倒れている人を起こそうとした。しかし、彼女を起こしてあげる人は誰もいなかた。
 『あの日』以来、十年訪れていなかたこの砂浜を訪れたのは、そういたことを思い出したからかもしれない。
 仰向けに寝転んで月を見ていると、近くで砂を踏みしめる足音が聞こえた。顔を向けると、そこに兄が立ていた。
「なんだよ、兄貴。まだいたのか」
 兄はいつものように傲慢さを表情に浮かべて、惨めな感傷に浸りながら寝転ぶ僕を見下ろしていた。いつだて、僕は兄に見下ろされている。
「なんだはないだろ。わざわざここまで連れてきてやたのに」
「別に兄貴に連れてこられなくても俺はここに来たよ」
「いーや。お前は絶対に来なかたね。うじうじと家の中で寝転がてたはずだ」
「知たような口を」
「ふん、何年お前の兄貴をやてると思てんだ」
 兄はそう言て僕の隣に腰を下ろした。
「鳴海ちんはさ」
 兄はそう言て、少し折れ曲がたハイライト・メンソールに火をつけた。
「あれは、お前の初恋だろ」
 断定的に、そう言うのだた。
「ふん」
 僕は鼻を鳴らして、顔を背ける。
「鳴海ちんが消えた次の日、お前が家じうの皿を割て部屋に閉じこもたことも、何時間も冬の海に立ち尽くして警察に不審者として連行されたことも、訳のわからないことを泣きながら喚いたことも、そうじなければ説明がつかない」
「恋だなんて単純なものじないんだよ」
「いーや、それは間違いなく恋だたね。お前の初恋だ」
「相変わらずあんたは傲慢だな」
 苦笑しながら、僕は流れてきた煙を手で払う。
 大学の時にプロのバイオリニストなることを諦め、父親のコネで貿易会社に入社したのち、二十九歳でセレクトシプを開き、ネト販売を中心にそれを成功させ、去年結婚を果たした兄貴は、順風満帆な人生を送ている。
 と、周りの人には思われている。が、バイオリンで結果を出せなかた兄貴は自殺未遂をして精神科の病院に入院する羽目になたし、貿易会社に行ている時も慣れない仕事で胃に穴が空いて、さらには尿管結石までやらかしたし、翌年には悪い女に引かかて裁判沙汰にまでなた経験もある、兄は兄なりの苦労をしている。それは子供の時には解らなかたもので、たぶん大人になた僕らは、お互いの苦しみを少しずつ理解し、歩み寄ろうとしている。兄弟という不思議な縁から離れることなどできない。
「兄貴はさ、今の奥さんが死んだらどう思う?」
「どうだろうな。想像がつかないな」
 兄はこちらを見ずに、煙を吐き出しながらそう言た。
「それは幸せなことだな」
 思わず、僕はそう返した。
「皮肉か?」
「いや、本当に」
「鳴海ちんは……
 兄貴がそう言いかけて、口を閉ざした。
「海へ帰たんだよ。鳴海は。あいつは海から生まれてきたんだ」
 命日。
 僕以外の人間は、鳴海にとての『今日』をそう名付けた。


 十年前。
 鳴海は、「海へ潜て、色々なことを考えたいと思います」という謎の書置きを残して、消え去た。
 その後に、この海で発見された水死体について、僕は知らないふりをした。ただ海の前で立ち尽くして、何時間も海を見ていた。体に力が入らなかた。何も考えられなかた。流れ続ける波を見ていた。変わらない音を聞いていた。彼女は深く海へ潜ている。時々顔を出すんじないかと、そんなことを考えていた。
彼女が消え去る半年ほど前、僕は一度彼女に会ていた。
 カラフルな装飾の部屋だた。ベドは一つしかない。派手な装飾のダブルベド。それは僕たちには大きすぎた。僕たちは二人でそこに寝そべる。まるでシノーケリングでもしているみたいに。息苦しさと、素敵な光景を見ている感覚が、そこにはあた。水に入ているかのように、何もかもが上手く聞き取れない。潜れば潜るほど、辺りは暗くなていく。二人の体だけが頼りだた。体温しか感じられない。ずと抱き合ていた。
「もう戻れないよ」
 と、鳴海は言た。時おり痙攣するように震えている手は、かつて僕が更衣室で見た手よりも細く、血管が浮き出ている。手の甲にはアメリカン・チリーのタトがあた。それがくしくしに歪んでいる。視点の定まらない瞳に、焼けついたような声。訳も分からずに、涙ばかりが流れていた。
「それでいい」
 僕はそう言た。投げやりな言葉ではなく、生きるエネルギーとは反対の方へ向かて潜ていくことが正しい時だてある。それは世間から見れば異常で、人間の尊厳を踏みにじる行為でしかないのだろうが、しかし当人にとては限りなく正しい選択だ。苦しみの無い方へ降りていく。深海ヘ潜ていく彼女が、もう戻れないことを知ても、僕には彼女を肯定することしかできない。どんなに僕が惨めな顔をしたところで、彼女はもうそこから浮き上がることはできなかたし、僕に彼女を掬う力などなかた。人生の中であんなにも惨めに泣いたことは二度しかない。そして彼女はその顔を力なく笑て見ていた。ベドの上で僕は溺れそうになている。なぜか、彼女が付けていないであろうグレープフルーツの制汗剤の香りがしていた。目を瞑ていつまでも浸ていた。


 兄は、僕が彼女の後を追うと思ているのだろうか。
 そんなことはしない。僕はただここで彼女が沈んだ海を見ていたい。
 首元のマフラーが風に揺られ、吹き飛ばされそうになる。寒さで手の感覚はない。鼻水が絶え間なく流れ続けている。僕は彼女が消えた海に向かて、何時間も佇み続けている。それは感傷ではない。義務だ。
 波が幾重にも重なた絹のように打ち寄せている。
 もう海は聞こえない。
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