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　それは初恋だったのだろうか。当時の僕からしたら、それを初恋と呼んでしまうことに強い反発を覚えただろうが、三十歳になった現在から見れば、あれも一つの初恋の形であり、青春の思い出と呼んでいいのではないかと思える。
　佐藤鳴海は、僕の従姉だった。「なるみ」です、と自己紹介すると必ず苗字と間違えられるので、いつもフルネームを名乗るようにしていると言っていた彼女の名は、確かに珍しい。だが、夏を感じさせるエネルギッシュな彼女にふさわしい名前だと、僕は彼女の両親のネーミングセンスに脱帽したくなる。
　海が鳴っている。
　もちろん両親としては、さざ波の音を静かな浜辺で聞いているような、詩的な感性をそこに込めたのだろうが、実際の鳴海は、嵐の海の荒々しい波音のような女の子に育ってしまった。そう。一言で言ってしまえば、鳴海は台風の海のような奴だった。
　僕が十歳の頃の、夏休み。
　そこで僕は鳴海という存在を強く意識させられたのかもしれない。
　七月の終わりごろだった。両親と兄は、僕を置いて徳島から東京へ向かった。それは決して、僕が疎まれていたという訳ではない。どちらかといえば、僕が彼らを疎んでいた。だから、そのような形になった。
　兄は幼い頃からバイオリンを弾かされていた。兄は自分からバイオリンを手に取ったと誇らしげに語るのだが、僕から見ればそれは親の見栄で弾かされているにすぎなかった。しかし親の見栄に、兄は応えられるだけの感性と才能を持っていた。兄は極度の負けず嫌いで、繊細な人間だった。自分が他人より劣っていることに我慢がならなかったし、人間関係が上手くいかなかったり、自分の努力が思ったほど認められなかったりしたら、こちらが鬱陶しいと思うほどにひどく傷ついた。そんな繊細で負けず嫌いの人間に、クラシックという音楽は向いていたのかもしれない。兄は他人よりも人一倍努力し、その繊細さによって課題曲を深く理解することに長けていた。そして兄は上達するごとに傲慢になっていった。無意識に人を馬鹿にせずにはいられないような、歪んだ性格の人間になっていった。
　僕は物心ついた時から兄が大嫌いだった。僕に接するときの言葉に端々に、その態度の端々に、僕を見下すものが感じられたのだ。例えば僕がアニメを見ている時、兄は「あーあ、いいよな。お前はアニメなんか見てる時間があって。俺はこれか課題曲の練習しなきゃいけないのに」と、まったく僕の方を見ないで冷蔵庫の方を見ながら大きな声で言ったり、僕がゲームをしていると、「まったく才能のない人間ってのは気楽でいいよなあ」などと、彼の優越感のはけ口として、僕は存在していた。兄の世界観は、完全に音楽の才能で決められているようだった。両親も、兄ほど露骨な態度でなかったにしろ、明らかに兄だけに期待しているようで、無意識に僕よりも兄の方を褒めたり、事あるごとに兄と比べて僕の出来の悪さを嘆いたり、そしてある時は完全に僕のことを無視することもあった。
　その十歳の夏休みも、恐らく兄のバイオリンのコンクールの全国大会だか何だか、はっきりとしたことは覚えていないが、そんなものがあったのだと思う。親の見栄と兄の自尊心を鞄いっぱいに詰め込んで、彼らは東京へ五泊六日の旅に出かけた。彼らも一応、僕に声をかけてくれたのだが、僕が行かないことを彼らも判っていたのだろう、夜中にこっそり封筒の中を見たら、そこには三枚分のチケットしかなかった。もしあの時に、「僕も行く」と言っていたら彼らはどのような反応をしたのだろう。恐らく、ただ疎ましげな視線で僕を一瞥し、それからもっともらしい理由を取り繕って、僕を留守番させたに違いない。それが判っていたから、僕は行くとは言わなかったし、彼らも四枚のチケットを予約しなかったのだろう。初めから東京に僕の姿などなかったのだ。
　そうして僕は一週間ほど留守番することになった。が、いくらなんでも十歳の子供一人で一週間を過ごすのは難しかったし、親もそこまでネグレクトまがいのことをするわけがない。僕は近くに住んでいる叔母の家に厄介になることになったのだ。
　留守番、初日。
　朝の十時ごろ、生来のだらしなさで休みの日は十一時近くまで寝ている僕の部屋に、彼女は現れた。そして寝ている僕の耳にヘッドフォンをかけ、爆音で音楽を鳴らした。その瞬間の僕の反応はどのようなものだったのか。覚えているのは、ただ何事が起こったのかという混乱で跳ね起き、そして目の前に鳴海の満面の笑みと白い歯が視界いっぱいに映ったことだ。そして彼女特有の香り。女性らしさというものを好まない彼女は、化粧をすることも香水をつけることもしなかったが、意外にも清潔というものに気を使う彼女は、肌が焼けて染みにならないように日焼け止めをしっかりと塗っていたし、そして汗臭くならないようにしっかりとフローラルの香りの制汗スプレーを吹きかけていた。そのことを指摘すると彼女の機嫌が悪くなるし、そういうところこそ女性らしいと指摘すると、マニアックな関節技を決められるので、一回指摘して不機嫌になられて以降は、僕は彼女のそういう部分をからかったりしないように心掛けた。でもやはり、彼女の印象といえば、満面の笑み、そして吸い込まれるような大きな瞳、白い歯、そしてほのかに鼻をくすぐる制汗スプレーと日焼け止めの香りだった。それは今でも変わらない。
　そうして混乱しながらもヘッドフォンを外し、寝ぼけながら見つめている僕に、彼女は訳のわからないことを言った。今となってみれば、それが僕に爆音で聞かせていた曲の歌詞だったと判るが、その時ばかりはとうとうコミュニケーションすらできなくなったのかと、本気で心配したものだ。
「なにそれ」
　僕が尖った不機嫌な声で言うと、彼女は
「ミッシェル・ガン・エレファント」
　と言って、ヘッドフォンを指差した。
「今流してる曲。ゲット・アップ・ルーシーっていうの」　
「なにそれ」
「ロックンロール」
「なにそれ」
「うーん、ロックとは何か……。それは難しい問題だよ」
　本気で怒ってやろうかと思ったところで、彼女は笑いながら「ごめんごめん」と言って僕の首元に抱き着いてくるのだ。そうされると僕としては怒れないし、なんと言うのだろう、爆音で僕を起こすような無茶苦茶さが彼女の九十九パーセントを占めているのだが、そうやって無邪気に抱き着いてくる、残りの一パーセントの心を捉える何かが、僕が彼女を嫌うことのできない大切な要素だったと思う。
「少年、海へ行こうぜ」
　鳴海は、僕の手を引っ張って無理やり起こしながら言う。
「せめて朝ごはんくらい食べさせてよ」
　僕がうんざりしながらそう言うと、
「そんなもの海の家でいくらでも食べさせてあげるよ」
　そう言いながら、力強く僕の手を引いた。こうなると、もう鳴海の吸引力に身を任せるしかなかった。僕が彼女に逆らって成功したことは一度もなかったし、彼女の勢いに乗って僕が嫌な気分になったことも一度もなかった。子供の時に台風がやってくると、やたらとわくわくした気分になったことを覚えているが、そういう意味でも鳴海は、僕にとっての台風のように思えてならない。台風は無理やりに僕の周りの環境を無茶苦茶にしながらも、僕をどこかへ連れて行ってくれる、そんな予感を感じさせたのだ。
　玄関先へ出てみると、そこには一台のバイクが停まっていた。スクーターではなく、バイク。
「さあ、後ろに乗って」
　無茶苦茶だ、と思った。
　だって彼女は中学三年生で、免許を取れる年齢ですらないのだ。どこからこのバイクを入手したのか、まさか本当にこれを運転するのか、怖くて聞けなかった。冗談だよ、と言って頭を軽く叩いてほしかった。でも鳴海は、得意げにそのバイクに跨った。どうやらこれは現実で、僕はその無茶苦茶な台風に乗って海まで向かわなければならないらしい。この時は本当に死を予感していた。だってろくにバイクを運転したことのない女子中学生の後ろに乗るだなんて、客観的に見たら自殺行為だ。
「ねえ、これをどこから調達したのかとか、そういう野暮なことは聞かない。ただ一つ、安全に運転できるのか、それだけを聞かせて」
　震えを隠せない僕の声に、鳴海はヘルメットを被り、顔半分を隠すサングラスをつけながら、親指を立てた。
「なんとかなるでしょ」
　これが彼女の口癖だった。ぶっとばしてやりたかった。彼女と出会ってから一万回はそう思わされてきただろうが、この時ほど強くそう思ったことはないだろう。なんとかなるわけないだろ！　僕はそう叫んだ。だって明らかに運転したこともない中学生が、公後ろに子供を乗せて公道を走るだなんて、さすがにこの無茶苦茶さ加減に身を任せたくはなかった。僕は喚きながら訴えて、半ば泣いていたのだけれど、彼女は何が楽しいか、僕の神経を逆撫でするように腹を抱えて笑いながら「もぉー、大丈夫だって。これくらい誰だってできるでしょ」と言うのだった。ぐずる僕を宥めながら彼女は僕を後ろに乗せ、そしてエンジンを噴かせた。その音は地獄への合図だった。でも一瞬だけ、なぜだろう。鳴海と死ぬのは悪くないかもしれない、と思ったことを覚えている。その理由を明確に言葉にするのは、二十年たった今でもできない。でも死ぬ瞬間に、家族ではなく鳴海といれることは、当時の僕にとって幸せなことだったのかもしれない。
　そんな一瞬の幸せを置き去りにして、バイクはアスファルトの道を走り始めた。
　最初によろけた時点で、あっ、本当に死を覚悟しなくちゃ、と思っていた。そして両親やら、大嫌いな兄やら、クラスメイトやらへの、遺言のような言葉をずっと考えていた。みなさんありがとう。僕はこのめちゃくちゃな女のせいで死にます。でも後悔はありません。だってなんだか、公道を走り始めたわくわく感、肌に感じる風、風景が後ろに過ぎ去っていくのを体全体で感じる感覚、それは悪くないんです。これをきっと、君たちは感じることはできないでしょう。僕にとっての大事なものと、君たちにとっての大事なものは違うのです。とくに兄なんかは、音楽という閉じた世界でもがきながら泳いでいますが、僕は台風に乗ってあらぬ方向へ飛んでいくのです。そしてそれがすごく楽しいのです。そうやって風を感じながら彼女の後ろをついていく感覚はとても自由で、僕にはかけがえのないものなのです――そんなちょっとセンチメンタルな格好をつけた言葉を頭に浮かべながらも、気が付いてみれば、彼女はごくまともに運転しているのだった。
「鳴海。運転できてるじゃん」
「当たり前でしょー。こんなの自転車と変わんないし」
「いや、全然違うけど」
　鳴海の運動神経を侮っていた。いや、運動神経が関係あるのかわからないが、鳴海は初めてのことでも卒なくこなすことができる人だった。その辺も、鳴海に対する純粋な憧れがあった。
「でもさー」
　信号待ちをしている時に、彼女は笑いながらそう切り出した。
「実を言うと、めっちゃ練習したんだよね。これ大学生の先輩に借りたんだけどさ、その先輩と人のいない夜の山道とか公園で、すっごく練習したんだよ。修一を乗せて海へ連れて行ってあげたかったから」
　そうやって僕の名前を出してくれるところに、彼女の無邪気な優しさを感じるのだ。そしてそれと同時に、この時ははっきりと意識できていたわけではなかったが、大学生の先輩という人に強く嫉妬してもいた。きっと鳴海はその先輩が好きで、一緒にいたのだろう。僕は子ども扱いで、その人とは大人の付き合いをしているのだろう。アウトローな鳴海は、変わり者として評判で、まともじゃない人との付き合いも多い。それを言ったら僕だってまともじゃないことになりそうだけれど、例えば三十歳を超えたバンドマンだとか、女性の入れ墨の彫師だとか、高校へ行かずに四年間カナダで過ごしていた人だとか、バイクで日本一周をしていた人だとか、そういう社会からはみ出していたり、あるいははみ出しそうな人と強く結びついている。その危うさを当時の僕は気づかなかったし、彼女も気づいていたのかどうかわからない。

　ふと気がつくと、バイクは彼女の通う学校の前に停まっていた。夏休みだが、グラウンドでは部活動をしている生徒たちがちらほらいる。小学生だった僕にとって、中学校とは未知の場所で、僕よりもずっと大人の者がうようよしている怖い場所でもあった。
　彼女は特に周りの目を気にすることなく路上にバイクを停め、すたすたと校門を通って行った。僕は慌てて後を追いかけながら、本当にこの女は無茶苦茶だ、先生に見つかったらどうすんだ、と気が気ではなかった。
　彼女は誰も人のいないプールの方に向かって歩みを進めていた。僕たちは海へ向かっていたのではなかったか。そんな当たり前の疑問も、鳴海には通用しない。彼女は気まぐれだ。五秒前に海へ行くと宣言しても、いつの間にか山へ向かっているような女だ。プールに向かっている分だけ、予定は順調と言っていい。
　そうして彼女はそのまま、女子更衣室の前にたどり着き、なぜか持っていた鍵を使って中へ入っていった。さすがに一緒に入るわけにもいかずに、更衣室の前でまごまごしていると、鳴海は扉から顔を出し、不思議疎な表情を浮かべて
「修一、何やってんの？　入ってきなよ」
　と、言った。
　さすがに十歳にもなれば異性に対する感情も育まれていて、無邪気に女子更衣室に入ることなどできなかったし、そこに強烈な恥ずかしさを覚えたのだった。僕は首を横に振りながら、「入りたくない」と言った。が、鳴海は「なに一丁前に恥ずかしがってんのー、ウケる」と言いながら僕の手を引いて、無理やりに僕を更衣室に引っ張ったのだった。
「夏休み前に水泳の授業があってさ、普段はサボるんだけどその日だけは出なくちゃいけなかったんだよね。加藤がさー、あっ、体育の先生なんだけど、すっごいチラチラ女子の体を見るのね。もぉー最悪だったよ。おまけに日焼け止めと制汗スプレーを入れてたバッグをさ、ここに置き忘れたままにしちゃうし。なんか付きあわせちゃってごめんね」
　僕はきょろきょろと更衣室を見回しながら、鳴海の話に返事をした。塩素の匂いがしている。まだ性に目覚める前か、目覚め始めた頃だっただろうか、その場所にいることに僕は不安と恐怖を覚えた。鳴海の話がうまく頭に入ってこなかった。そうして僕は鳴海の手ばかりを見ていた。胸や脚ではなく、手ばかりをずっと眺めていたというのは、僕がまだどうしようもない子供だった証なのかもしれない。
　彼女は不安に駆られている僕の方を振り返ると、真っ白な歯を見せながら、いきなりスプレーを吹きかけてきた。驚いて目を瞑ると、途端に強いグレープフルーツの香りが鼻を通った。
「いい香りがする男の子は、女の子にモテるよ」
　悪戯心を声に滲ませて笑う彼女に、僕もつられて笑った。
　蒸されるような暑さの中で、いつまでもグレープフルーツの香りがしていた。

　海へ着いたのはお昼を過ぎてからだった。お腹が減ったと鳴海に言ったら、私もペコちゃんだよーと、くだらない言葉を返されながら、海の家へ二人で入ることになった。昼食に焼そばを食べて、かき氷を食べて、それから僕らは浜辺へと繰り出した。僕は水着を持ってこなかったし、鳴海は更衣室から持ってきたスクール水着しか持っていなかった。さすがの鳴海も、スクール水着で泳ぐほどの無邪気さはなかった。僕らは浜辺に座りながら、打ち寄せる波を見て、砂に絵を描いて、照りつける日差しに焼かれるがままになっていた。
「修一は大人になったら何になりたいの」
　波打ち際ではしゃいだ後に、浜辺に座り込んで、ふと鳴海はそんなことを聞いた。僕は考えながらも、遥か未来である十年後、二十年後の想像など具体的にできるわけもなく、ぱっと頭に浮かんだ「普通の人」という言葉を口にした。
「かーっ、眠たいことを言ってんじゃないよ。少年」
　鳴海は呆れたようにそう言って、握っていた砂を海の方へ投げつけた。
「じゃあ、鳴海は何になりたいのさ」
　そう尋ねると、彼女は口元に笑みを浮かべて
「倒れてる人がいたら、起こしてあげられる人になりたい」
　と言った。
　僕は思わず、なにそれ、と言って笑った。
「普通の人よりは素敵でしょ」
　鳴海は少しむくれながらそう返す。
　どっちもどっちだった。結局、僕らは将来のビジョンを明確に描くことなんてできなかった。しかしながら、それでも僕らがその日に口にしたことは、将来の自分の姿を的確に表していたのだから、偶然というものは面白い。僕は普通の人になり、彼女は倒れている誰かを起こしてあげようとする人になった。起こして、支えてあげる人。それが鳴海の人生だったのだ。
　僕らはそれから、いつも二人で遊ぶように、意味のない問答を繰り返した。
　ドーナツの穴は何で開いているのでしょう。
　鳴海が答える
　その方がキュートだから。
　太陽は、水平線に沈んだ後にどこに行くの？
　僕が答える。
　水星とデートしている。
　なんで枯れた草や木は元に戻らないの。
　鳴海が答える。
　失恋したから。
　好きな人が一番喜ぶ言葉はなんだろう。
　鳴海がそう訊いた。
　沈黙。
　僕は答えられない。
　波の音が僕らの近くによって来る。
　穏やかな波の音。
　グレープフルーツの香りはもう消えている。

　
　その夏の思い出の一ページ以後も、僕と鳴海はそれまでと同じように遊び、彼女に振り回され、そうでありながらもそれを楽しんでいた。今思えば、家族の中で孤独を感じていた僕を、鳴海は積極的に外へ連れ出そうとしていたのだと思う。彼女が言っていた、倒れている人がいたら、起こしてあげたい、それはまさにそのときに実行されていた。しかし起こされている側である僕が、それに気づいていなかった。もちろん、彼女の起こし方にも大きな問題はあったと思うが。
　そうして僕らの関係は変わらずに続き、それは鳴海が高校を中退して友人とアメリカへ行くまで続いた。彼女はアメリカで二年ほど過ごした後、とあるＮＰＯ団体に入って、各国の貧困の村へ行ったりするようになった。それは「普通の人」になりたいと答えた僕にとってリアリティのない生き方で、「倒れている人を起こしてあげたい」と答えた鳴海にとっては、それこそがリアリティのある生き方だったのだろう。いずれにしろ、僕らの道はどこかで分岐して、それぞれが全く違う道に進むことが、初めから決まっていたのだと思う。
　僕が中学に入ったばかりの時に鳴海はアメリカに行ったから、その六年後だろうか、僕の大学一年の夏休みに、彼女はふらりと叔母の家に戻ってきた。それまでもメールやらで連絡は取り合って近況は知っていたが、メール上の文字だけだと、上手く鳴海の存在がつかめなかった。なんというか、鳴海の無茶苦茶さや、一パーセントの心を掴む何かが、文字からは感じられないのだ。鳴海の良さは、目の前にいる鳴海に接した人じゃないと判らない。それは、鳴海がアメリカに行ってから判ったことだった。
　キルギスから戻ってきたという鳴海に、その日に電話で呼び出されて、僕は駅前にある喫茶店で彼女と待ち合わせることになった。ド田舎の町の純喫茶には、ほとんど人がいない。それはあまり鳴海らしいチョイスとは言えなかったけれど、あれから六年もたてば、人の考え方や思考だって変わることもあるだろう。僕は早速、その喫茶店に向かった。
　店内には、椅子に深く腰掛けながら新聞を読んでいる老人と、漫画のようなものを描いている痩せ細った青年と、疲れたような目で壁にかかった絵を眺めている幸薄そうな女性がいるだけだった。約束の時間の十分前だから、鳴海はまだ来ていないはずだった。彼女が時間通りに現れるような人間でないことは、僕は十分知っている。そう思って入り口近くの席に腰掛けると、絵を眺めていた女性がこちらを向いて、「こらこら、五年ぶりの再会にどんなボケをかましてんの」、と記憶の中で聞いたことのある声で喋った。鳴海だった。それは記憶の中にある印象と大きく変わっていた。
「修一がそんなシュールなボケをするようになるとは、六年の歳月っていうのは恐ろしいね」
　こちらの方が、六年の歳月で変わってしまった何かを大きく感じていると言いたかった。きらきらと輝いていた力強い何かが、鳴海から消えているように感じられた。もちろんそれは、久々に彼女と会ったからで、先程の会話からすれば鳴海らしさは変わっていないような気もするが、それでも六年前にバイクに僕を乗せて走っていたあの鳴海の輝かしさが、なぜかその外見から消え失せているように、僕には直観的に感じられるのだった。
　彼女はこんなきっちりと化粧をする女性ではなかった。決してスカートなど穿く女性ではなかった。こんな疲れた目をしている女性ではなかった。しかし、それはただの僕の我儘な願望にすぎず、理想の押し付けに過ぎないのかもしれない。いつまでも僕が子供時代にとらわれ続けているだけなのかもしれない。


　後ろに鳴海を乗せて、僕はバイクに跨る。夏の夜は、バイクで風を切りながら、誰もいないシャッター街を突き抜けるのが気持ちいい。この風を切る感覚の楽しさを教えてくれたのは鳴海だった。その鳴海の姿が、もうどこかに消えてしまったように感じて、僕はそれを取り戻そうとしたのかもしれない。鳴海を海へ誘った。彼女は少しだけ戸惑った後で、短く頷いた。
「バイクに乗る男の子ってモテるでしょ」
　夏の夜の、草いきれの強い匂いを体全体で受け止めながら、僕は鳴海の声を聞いた。
「モテないよ。僕とは正反対の、明るくてバカ騒ぎができる奴の方がモテるよ」
「世間ってつまんないね」
「おいおい、鳴海からそんな一般的な意見が聞けるとは思わなかった」
　思わず苦笑しながら、赤信号を突き抜けて、僕らは海岸へ降りるまっすぐな道を走った。

　僕が無造作に砂浜に腰を下ろすと、彼女もスカートの裾を気にしながら隣に腰を下ろした。そのまま数分間、僕らは黙って波の音を聞いていた。ゆらゆらとしたものがずっと彼方まで続いている。
「恋をしているの」
　彼女は言った。
「私らしくないでしょ」
　力なく笑っている。
　僕は何と答えたらいいのかわからなかった。
　六年も経てば人は変わる。それが良いか悪いかなんて、個人の主観でしかない。それでも、隣に座る女性は、僕の知っている鳴海とは違っていた。なぜか好ましく思えなかった。
「売れない映画を作る人なんだ」
　タイの農村で、売れない映画を作っている彼と偶然に出会い、恋に落ちたらしい。それから彼女は、ＮＰＯ団体を脱退し、彼と同棲を始め、アルバイトをするようになり、彼のためにお金を稼いで、やりたくもない仕事をして、彼を励ましながら、彼の傍にいることに歓びを感じている。まさに、売れない映画のような物語を歩んでいた。誰にも見向きもされない、平凡な物語のヒロイン。しかし、それは鳴海であってはいけなかった。彼女が六年前に持っていた、きらきらとしたものはどこに行ってしまったのだろう。まだ持ち続けているのだろうか。それともそれは、初めから僕の幻想に過ぎなかったのだろうか。
「私がいないと、彼は立ち上がれないから」
　ぽつりと呟いたその言葉に、僕は鳴海という人間を悟ったように思った。倒れて駄目になっている人を起こして、支え続ける人間であり続ける。彼女の幸せがそこにあるのだとしたら、彼女の向う先には不幸が待っている。少なくとも僕から見たら、普通の人から見たら不幸だと思えるようなことが。現にその映画監督は多額の借金を抱えながら、鳴海に依存して生きている。彼女はそれを幸せそうに語るのだが、僕にとってはそれが幸せとは思えなかった。僕は鳴海にもっと幸せに生きてもらいたかった。あるいは、あのきらきらと輝いていたものを振り回して、世界中にいる僕のような人間を外へ連れ出してほしかった。しかし彼女の選んだ道は、倒れている人に引きずられながら歩き続けることだった。
「そうなんだ」
　僕にはそう言うことしかできなかった。あの時の彼女は、僕にどのような言葉を望んでいたのか。「普通」である僕に、どのような言葉を、行動を、望んでいたのか。なぜ僕を呼び出して、話を始めたのだろうか。そこには大きな意味があるようにも思えたし、僕の考え過ぎであるような気もした。あの時、僕が何か他のことを言えていたら、鳴海の人生を大きく変えるような言動をしていたら、と思うこともあるが、しかし過去の仮定など感傷に過ぎないのかもしれない。
　が、その惨めな感傷が心を癒すときだって、人生にはあるのだとも思う。惨めな感傷を積み重ねて、普通の人は生きている。感傷に溺れて、何かを発見するときだってある。世間で馬鹿にされるほど、惨めな感傷は笑われるようなことではない。僕らの人生が行きつく場所が、ろくでもない場所だったとしても、その感傷には必然的な意味あるように、僕には思えた。


　僕は砂浜に倒れこみながら、その時に言うべきだった言葉を今も探している。僕が倒れている彼女に、手を差し伸べるべきだったのではないか。彼女は世界中で倒れている人を起こそうとした。しかし、彼女を起こしてあげる人は誰もいなかった。
　『あの日』以来、十年訪れていなかったこの砂浜を訪れたのは、そういったことを思い出したからかもしれない。
　仰向けに寝転んで月を見ていると、近くで砂を踏みしめる足音が聞こえた。顔を向けると、そこに兄が立っていた。
「なんだよ、兄貴。まだいたのか」
　兄はいつものように傲慢さを表情に浮かべて、惨めな感傷に浸りながら寝転ぶ僕を見下ろしていた。いつだって、僕は兄に見下ろされている。
「なんだはないだろ。わざわざここまで連れてきてやったのに」
「別に兄貴に連れてこられなくても俺はここに来たよ」
「いーや。お前は絶対に来なかったね。うじうじと家の中で寝転がってたはずだ」
「知ったような口を」
「ふん、何年お前の兄貴をやってると思ってんだ」
　兄はそう言って僕の隣に腰を下ろした。
「鳴海ちゃんはさ」
　兄はそう言って、少し折れ曲がったハイライト・メンソールに火をつけた。
「あれは、お前の初恋だろ」
　断定的に、そう言うのだった。
「ふん」
　僕は鼻を鳴らして、顔を背ける。
「鳴海ちゃんが消えた次の日、お前が家じゅうの皿を割って部屋に閉じこもったことも、何時間も冬の海に立ち尽くして警察に不審者として連行されたことも、訳のわからないことを泣きながら喚いたことも、そうじゃなければ説明がつかない」
「恋だなんて単純なものじゃないんだよ」
「いーや、それは間違いなく恋だったね。お前の初恋だ」
「相変わらずあんたは傲慢だな」
　苦笑しながら、僕は流れてきた煙を手で払う。
　大学の時にプロのバイオリニストなることを諦め、父親のコネで貿易会社に入社したのち、二十九歳でセレクトショップを開き、ネット販売を中心にそれを成功させ、去年結婚を果たした兄貴は、順風満帆な人生を送っている。
　と、周りの人には思われている。が、バイオリンで結果を出せなかった兄貴は自殺未遂をして精神科の病院に入院する羽目になったし、貿易会社に行っている時も慣れない仕事で胃に穴が空いて、さらには尿管結石までやらかしたし、翌年には悪い女に引っかかって裁判沙汰にまでなった経験もある、兄は兄なりの苦労をしている。それは子供の時には解らなかったもので、たぶん大人になった僕らは、お互いの苦しみを少しずつ理解し、歩み寄ろうとしている。兄弟という不思議な縁から離れることなどできない。
「兄貴はさ、今の奥さんが死んだらどう思う？」
「どうだろうな。想像がつかないな」
　兄はこちらを見ずに、煙を吐き出しながらそう言った。
「それは幸せなことだな」
　思わず、僕はそう返した。
「皮肉か？」
「いや、本当に」
「鳴海ちゃんは……」
　兄貴がそう言いかけて、口を閉ざした。
「海へ帰ったんだよ。鳴海は。あいつは海から生まれてきたんだ」
　命日。
　僕以外の人間は、鳴海にとっての『今日』をそう名付けた。


　十年前。
　鳴海は、「海へ潜って、色々なことを考えたいと思います」という謎の書置きを残して、消え去った。
　その後に、この海で発見された水死体について、僕は知らないふりをした。ただ海の前で立ち尽くして、何時間も海を見ていた。体に力が入らなかった。何も考えられなかった。流れ続ける波を見ていた。変わらない音を聞いていた。彼女は深く海へ潜っている。時々顔を出すんじゃないかと、そんなことを考えていた。
彼女が消え去る半年ほど前、僕は一度彼女に会っていた。
　カラフルな装飾の部屋だった。ベッドは一つしかない。派手な装飾のダブルベッド。それは僕たちには大きすぎた。僕たちは二人でそこに寝そべる。まるでシュノーケリングでもしているみたいに。息苦しさと、素敵な光景を見ている感覚が、そこにはあった。水に入っているかのように、何もかもが上手く聞き取れない。潜れば潜るほど、辺りは暗くなっていく。二人の体だけが頼りだった。体温しか感じられない。ずっと抱き合っていた。
「もう戻れないよ」
　と、鳴海は言った。時おり痙攣するように震えている手は、かつて僕が更衣室で見た手よりも細く、血管が浮き出ている。手の甲にはアメリカン・チェリーのタトゥーがあった。それがくしゃくしゃに歪んでいる。視点の定まらない瞳に、焼けついたような声。訳も分からずに、涙ばかりが流れていた。
「それでいい」
　僕はそう言った。投げやりな言葉ではなく、生きるエネルギーとは反対の方へ向かって潜っていくことが正しい時だってある。それは世間から見れば異常で、人間の尊厳を踏みにじる行為でしかないのだろうが、しかし当人にとっては限りなく正しい選択だ。苦しみの無い方へ降りていく。深海ヘ潜っていく彼女が、もう戻れないことを知っても、僕には彼女を肯定することしかできない。どんなに僕が惨めな顔をしたところで、彼女はもうそこから浮き上がることはできなかったし、僕に彼女を掬う力などなかった。人生の中であんなにも惨めに泣いたことは二度しかない。そして彼女はその顔を力なく笑って見ていた。ベッドの上で僕は溺れそうになっている。なぜか、彼女が付けていないであろうグレープフルーツの制汗剤の香りがしていた。目を瞑っていつまでも浸っていた。


　兄は、僕が彼女の後を追うと思っているのだろうか。
　そんなことはしない。僕はただここで彼女が沈んだ海を見ていたい。
　首元のマフラーが風に揺られ、吹き飛ばされそうになる。寒さで手の感覚はない。鼻水が絶え間なく流れ続けている。僕は彼女が消えた海に向かって、何時間も佇み続けている。それは感傷ではない。義務だ。
　波が幾重にも重なった絹のように打ち寄せている。
　しかしどれほど耳を澄ましても、
　もう二度と海は聞こえない。

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