逢瀬
16の時、生まれて初めての恋をして、それを相手に告げたことがある。冬の早朝の、誰もいない音楽室の前で待ち伏せをして、ただ、好きですと告げた。
相手は生徒会書記をしている、2学年上の先輩だ
った。私の名前どころか、顔だって覚えがなかっただろう。突然の告白に驚いたように、一瞬だけ目を見開いた。まだほんの少しだけオレンジ味を帯びた太陽の光がその横顔に影を作った。それを近くで見れただけで、自己中心的な私の胸はただときめき、そして、深く後悔した。
「ごめんなさい」
うつむいて、絞り出すように言った。
「気持ち悪いですよね、女にこんなこと、言われたら」
彼女は大人びた声で返した。
「ううん。嬉しいわ」
私たちはそれから毎日、早朝の音楽室であいびきをした。
誰よりも早く学校へ来て、他の生徒たちが登校してくるまでのほんの少しの間だけ、音楽室で同じ時間を過ごすのだ。
16の少女たちは決まりごとを作るのが好きだった。特に恋に絡んだ決まりごとが。
例えば、メールは彼から送ってくるまで、女の子からは送らない。
例えば、恋人とは必ず手を繋いで歩く。
例えば、好きと言ってくれない恋人とは、キスをしない。
そんな話をしあっては、女子生徒たちはクスクスと笑い合った。
私と先輩の間の決まりごとは誰にも話さない。
例えば、会うのは、誰にも見られないところで二人きりで。
例えば、会うのは、第二校舎の奥の、今は使われていない音楽室で。
例えば、音楽室には、先輩が鍵を開けたときにしか入らない。
そんな決めごとを交わして、私と先輩はこそばゆい気持ちでほほ笑み合った。
私はいつも、いてもたってもいられなくなって、早くに第二校舎にやってきて、先輩がやってくるのを、鍵を開けてくれるのを待っている。かちゃりという鍵の音とともに胸が高まる。音楽室の中で、私たちは言葉を交わさず、本を読んだり、勉強をしたりして、お互いの時間を過ごす。それだけでも、私の心はひどく満たされた。
時には、他愛もない会話をすることもある。
「先輩は、ここのピアノを弾きに来てたんですか?」
私は、先輩がいつも早朝にここに来ているのを偶然知って、待ち伏せをして告白した。先輩は一瞬押し黙って、私をじっと見つめた。
「私が、ここのピアノを弾いているのを、見たことがあるの?」
「いいえ。でも先輩、ピアノ、弾けますよね。秋の合唱コンクールで、伴奏をしていました」
「そうね」
遠い目をして、先輩は少し沈黙した。
「でももう、ピアノは弾きたくないの。私の友達の方が、ずっと上手いから」
先輩の仲の良いお友達が、ずっと1か月前から学校に来なくなったという話は、噂で聞いていた。どんな人かはあまり知らない。ピアノも聞いたことがない。私は先輩の歌もピアノも好きだった。
その日、市内に10年ぶりに雪が降って、朝から公共交通機関が麻痺していた。
バスを使って通学している先輩も、いつもの時間を過ぎても第二校舎にやって来なかった。徒歩圏内から通っている私は凍えそうな寒さの中、いつもの場所で震えていた。
もう30回は、白い息を指先に吹きかけてこすり合わせたというところで、ずっと同じ姿勢で地べたに座っているのに耐えかねて、私は立ち上がった。
約束を破ることになるとは思いながらも、屋外とほぼ同然の廊下にずっといるのは辛かった。試しにドアノブに触ってみると、あっけなく空いてしまった。昨日に限って、先輩は鍵をかけ忘れたようだった。
先輩のいない音楽室は不思議な雰囲気だった。約一か月ほどずっと毎日通っていたのに、初めて来る場所のようだった。
私は、いつも先輩が座っている椅子を指先で撫でて、先輩が時折眺めている窓を指先で撫でて、それから、先輩が弾かないと言っていたピアノを撫でた。
私はピアノを弾けない。弾いたことがない。でも先輩の真似をしてみたくなった。
鍵盤の蓋を開けて、それから、逡巡して、グランドピアノの、屋根の部分を開けた。ピアノについてはよく知らなかったが、誰かがピアノを弾いているとき、そこはだいたい開いているような気がした。
喉が凍りそうな冷たい空気に乗って、嗅いだことのない臭いが鼻腔を突いた。
私は悲鳴を上げて、ピアノの蓋を思わず手放した。
私たちの間にあった愛しい決まり事の理由が、そこにはあった。