花魁扇花-白煙千鳥の如く
流れる車窓に頬を寄せれば目に入るもの全てが新しく胸に染み渡る。こうして初見(はつみ)の街々を眺めていると郭(くるわ)にいた時の心情が蘇るのも不思議でありんす。思えば最上から判方(はんかた)に引かれ江戸へ来て、小伝馬とあそこしか知りいせん。お里の事はす
っかり忘れてしまいんした。おとう、おっかぁの顔も判方のそれも今は朧でありんす。それでも、何とはのう憶えておりますのは里を離れる際、判方に引かれつつ茅葺きを振り返ると遠く畦の傍らにおっかぁが立っていた気がしんす。
ほんなあちきでも肩寄せ合う家々の間にすっくと立つ石造りの建物を見るにつけて、この街が変わっていく様を感じます。風向きでありんしょうか。時折、外の景色を覆う煙が過ぎります。その流れる煙を目の当たりにしんすと、嗚呼ご時世は変わったものじゃとほんに感じますなぁ。
「おばあさま。横濱に参りましょう」
この春から親類の百貨店に奉公し始めた孫娘が、予てから機関車に乗ってみたいと話していたわちきを連れてくれしゃんした。その百貨店の元が吉はんの譲った近江屋でありんしたから、ほんに因果を感じます。
息子はわちきの出自を気にしてか表に出したがりませんが孫の育子は違います。明るく笑うこの子を見ておりますと郭でわちきの世話をしておった禿(かむろ)、朝菊と桔梗の面影が過ります。あの子たち、わちきが身請けを受けた後どうしていたのやら今では知る由もおざんせん。
それはそれは新橋の駅舎は人集りが大変でありんした。わちきらの様な者はもとより、行商や軍人はんに至るまで鳴り物入りの混雑でありんす。わちきは齢七十を越えておりますので、乗り込む程に難儀しんしたが走り出しますと駕籠や人力車よりずっと楽なものでござんす。
「早いわね。どんどん駅が遠くなっていくわ」
街々を後にして駆ける機関車は、鬼が吠える音を響かせながら田んぼの水面に映る雲も置き去りに致します。窓辺で笑う育子を眺めておりますとわちきまで何やらおかしゅうなります。吉はん。あんたにもこの景色を眺めさせてあげとうござりんした。この菊子いえ扇花は真に感謝仕切れぬ想いでござんす。
あの晩、千鳥屋であちきは小判の上に紅落としの紙を重ねました。
「わちきの旦那様は決まりました」
そう云って二人の殿方の前で両の手をついたのでございます。低頭する郭の亭主に宥められ、お大名様は千鳥屋を後にされしんした。そして残った近江屋の吉太郎さんは、笑みをお浮かべになりながら亭主と別室へお引きになりんした。吉はんのあの笑顔を思い出す度、わちきは胸が苦しゅうて苦しゅうて今でも咎を感じずにはいられません。その夜更けわちきは先だってまで千鳥屋で牛助をしていた勝三はんと駆け落ちしたのです。
吉原の周りは、お歯黒どぶと呼ばれる堀で囲まれておりんした。しかも出入り口は大門ひとつ。吉原を勝手知った勝三はんは門番に仕込みを掛けた酒を差し入れしてありんした。それで二人は難なくそれを潜ったのです。お江戸の町内に逃れるには川を渡らなければなりません。勝三はんは蒲(がま)の原に舟を隠しています。それに向かってわちきらは闇の中、駆けるに駆けました。
だけどねぇ。考えが甘うござりんした。追っ手は魂消る早さでわちきらの着物を掴み闇の中に倒したのです。
「扇花!」
これが最後に聞いた勝三はんの叫びでございました。駆け落ちは郭の御法度。後で聞いた話に依りますとあの人は棒で叩かれるだけ叩かれて命を落としたそうです。わちきも花魁と云えど死ぬ程の折檻を受けるのが当たり前でござんす。ところが話を聞いた吉はんはわちきを助けてくれた。そして何事も無かった様にわちきを見受けしんした。折檻して傷物にしても千鳥屋には何の得手もありんせん。吉はんの助けは見世にとって渡りに舟だったのでござんす。呼び出し花魁ひとりの身請け千両。それに振る舞いの数百両。その上幾ら積んで私を助けてくれたのでありんしょうか。
蒸気の音が響き列車が軋みながら駅舎に入りました。風呂敷を担いだそさまらが一斉に乗り降り致します。随分賑やかな駅だねぇと呟きますと育子は大師様の駅だと教えてくれます。動くのも難儀に見える雑踏の中、わちきの目はある男に引き付けられました。片足を引き擦りながら背中を見せ次第に離れて行きます。
- 吉はん
吉はんの筈はありんせん。その姿は私を身請けした頃の未だ若さが残る吉はんに似ていたのでした。それでも奇跡の糸に縋る様にその後ろ姿を目で追ったのです。
吉はんはわちきを身請けした後、正妻に迎えるお積もりでありんした。ところが親類縁者、暖簾分けしたお店の方々総出の反対に遭いました。暖簾が汚れるとでも云うのでありんしょう。それ故、吉はんは腹を括られ大店の身代を甥に譲り小伝馬町に小さな店を開いたのです。それからは稼業に専念し二度と郭に通う事をされませなんだ。
それでも毎日の晩酌は欠かす事がなく、時折わちきに酌をさせたものでありんす。齢を重ねる毎、吉はんは涙脆くなって参りました。ある晩、酌を重ねておりますと突然床に両の手をつき謝り始めるではありんせんか。
「扇花済まない」
身請け以来わちきを郭の名で呼んだ事なぞ一切ありませなんだ。どう云う訳かその時に限り私を扇花と呼んだのです。何をわちきに詫びると云うのでありんすか。吉はんは床を涙で濡らしながら詫び続けました。酔った上とは云え、未だ釈然しないのはこの一事だけでございます。何度かこの事を問うてみたものの酔っていたのだとはぐらかしたまま、吉はんはあちきを残し逝ってしまわれました。
川崎を出てから車掌と呼ばれる跳ね上がった髭の駅員が列車の中を行き交います。軍人はんもそうですし、外面(そっぽ)を気にした旦那衆は判で押した様に同じ髭をたくわえ、皆ぺらぺらな異国の装(なり)でいるのを眺めるにつけて、この国も様変わりしましたもんだと実感致します。建物も人も全て変わりんした。同じ威張るなら二本差しで肩を張って歩いたお侍さんの方が余程男らしゅうござんす。鯔背をのせた町の若い衆はどこに消えてしまったのでありんすか。
ここは吉原大門五丁町。桜並木も華やかに、髭面雁首一町ずらぁりと並べ、兄さん禿を従えて高下駄ハの字を書いて歩きましょうと詮無く啖呵を切りたくもなりますなぁ。婆のこそぐったい戯言でござんす。世の変わり様は将軍様がお城を去り、天子様がいらっしゃっただけではないのでありんすね。
終点の横濱駅に入ると、そさま方は一斉に立ち上がり手荷物を取って出口に集ります。わちきに気遣ったのでしょう。育子は急く事なく座ったまま他の客が出てしまうのを辛抱強く待ってくれます。
車窓から見える人々の流れに勢いが無くなり疎らに駅舎を眺める事ができた頃、運転席から随分と上背のある男が歩いて来まして職員と挨拶をしております。
「あらま」
わちきは不覚にも声に出してしまいんした。大柄な男は金毛の異人でありんす。育子は平然とした顔で百貨店にも時折来るわよと笑っております。話には聞いておりましたが初めて異国のお人を目の当たりにしてこれまた驚きでござんす。
そろそろ行きましょうかと腰を上げ、横濱の地に一歩足を降ろそうとしています。最上の里から判方に買われ、幼い頃から禿となって郭に暮らし、花魁となるまでわちきは吉原しか存じませんでした。それが身請けされ小伝馬町で暮らす様になり、そして今、異国の船も立ち寄る横濱港を歩むなど郭の行燈(あんどん)で肌を晒していたわちきには思いも寄らぬ事。誠、人の運命とは不思議なものでありんすな。
菊子は育子に手を引かれ駅舎の階段を降りようとした。その時体を揺さぶる汽笛が響く。振り返り見上げると煙突から勢いよく吹き出した白煙の塊がこぶを成しながら蒼く乾いた空に昇って行く。そしてそれは千鳥となり横濱の空に溶けていった。
了
あと書き
「花魁扇花-白煙千鳥の如くは」第35回テキストポイ杯に投稿した「千鳥屋騒動」の続編として書きました。本来、千鳥屋~は前作で完結の予定でした。テキストポイ杯のお題は「謎ルール」。評価チャットの際、千鳥屋~のルールと花魁が示した結論に対して様々な好意的なご意見を頂きまして、その答えを示す為に続編を書く事になった次第でございます。
千鳥屋~で花魁は、わが身を身請けしようと競う男たちを前に、懐から小判を取出し、それに紅とり紙を重ねる事で返答の暗示としました。これは扇花が紅を拭い去り廓から出でて普通の女として暮らしたい気持ちと、小判を隠し銭金に縛られる(銭金に溺れる)のはもうまっぴらでございますとの気持ちでした。従って贅沢のみ提案し、館に囲おうとした大名を選ばず商人(本作では吉太郎)に決めたのです。これにて千鳥屋~は完結する筈でした。
ところが続編で扇花のその後をお伝えする約束をしましたので、物語を繋ぐ必要が出て参りました。そこで多少筋を曲げさせて頂き、扇花は千鳥屋~の冒頭に出て参りました牛助と実は恋仲であり駆け落ちを企てたところを起点にこの物語を書かせて頂いております。千鳥屋での解が決して「どちらの殿方も選ばない」ではない事を低頭しつつ申し上げて筆を置かせて頂きます。