その少女が私に向かって放った最初の言葉は「先生」であった。

「もう言葉を覚えたのか。想像以上に早い。君は素質がある」
「そしつ？」
「賢いということだよ。生へ貪欲だ。素晴らしい。それはこの環境ゆえの強さなのか、君自身の強さなのか、どちらかな。何にせよ、興味深い」
「先生のことばはむずかしい」
「君もやがて覚えるさ。君は賢い子だからね」
　私は少女の顔をそうっと撫でてやる。私の体にもたれかかった少女は、嬉しそうに目を閉じる。
　真っ白な膚に金の睫毛。そこに落ちた朝露の一滴が、まるで宝石のような美しさで滑り落ちていく。


「なぜ君は私を先生と呼ぶのかな」
「賢い人はみな、先生だと」
　数年経って、彼女はますます美しくなった。
　それが彼女が属する種族の常識なのだろうか。金の粒子が流れるような髪の毛、透き通るグリーンの目。膚は相変わらずの白さで、唇は燃えるように紅いのだ。
　幼い頃よりも頭は少しばかり小さくなり手足は伸びた。何と美しい足だ。手だ。彼女は白い布を体に巻き付けただけの恰好で、日差しを浴びて駆ける。私はそれを見つめる。
「先生」
　彼女は出会った時と同じ笑顔で私を見上げて手を振る。
「先生、大好き」
　その甘い言葉を聞くたびに私は、酷く悲しくなるのである。
　いつか来る別れの刃を、突きつけられている気になるのである。


「先生。私はあなたと種族が違うのでしょうか」
　ある日恐れていたことが起きた。
　彼女と暮らしてもう10数年。彼女は美しく成長した。美しくそして賢く。
「君は本を読んだのだな」
「森の……奥に、廃墟がありました。そこに本が」
　大きくなった彼女の手には、幼い頃には持てるはずもなかった大きな本が握られている。
　黒ずみと、錆と、黴のついた古い本だ。彼女はそれを長い指を使って器用に読みふける。
「なるほど。とうとう森の奥まで行ったのか。素晴らしい。成長だな」
　私は彼女を呼ぶ。彼女は愛おしそうに私に抱きつく。その暖かさ、その柔らかさを感じながら私は思うのだ。
「そうだ。君と私は違う」
「私はいつか……大人になれば、あなたのようになれると、そう信じて」
　彼女は涙をこぼす。私は静かに……残酷な言葉を吐いた。
「そろそろ君は君の種族に戻るべきじゃないか。いつか言わねばと思っていた。もう、君は一人で仲間の所に帰れるはずだ」
　いやです。彼女の口から、低く低く、その言葉が漏れる。


「先生」
　彼女が泣いていた。
　あれからもう何十年という時が経ったのだろう。残念ながら私に時の概念というものはない。あまりに長く生きすぎた。あまりに長く人間の死を見すぎた。
「いやです。先生、先生……」
　目の前で泣き崩れる少女は……いつか、老女となっている。それでもその美しさは健在だった。あまりにも美しく、あまりにも愛おしい。
「お聞き。お聞き。私はお前と出会った頃からすでに老木であった。そもそも老木でなければ人の言葉など喋らない。人の言葉など理解しない。そうだ。私はお前と出会う前から根元が腐っていた。私はとうに死ぬ運命だったのだ。だが、お前と出会って、お前の美しさが私を生かしたのだ」
　初夏の日差しが美しい。日差しを浴びて私の影が森の中に伸びている。古く根元の腐った木。それが私だ。もう、立ち枯れて久しい。ここまで長く生きられたのが奇跡であった。
「お前の村が……森の奥にあるあの村が軍に滅ぼされたのはもう数十年も昔だ。一人の女が這々の体でここまで辿りついた。罵った。お前は森の老木であり村の守り神であるのに、なぜ私達を見殺しにしたと。そうだ、私は見殺しにした。残念なことに私はあの者たちが思っていたような神ではないのだ。私は木だ。ただの木だ。この体ではうごけないのだ。悲鳴も血も、たくさん聞いた見た。それでも救えなかった。女は言った。せめてこの娘は救ってみせろと。女は私の足下に赤子を置いて、死んだ。背に大きな傷を受けていた。あの村の人間は皆、そうして殺されたのだろう。生き残ったのはお前だけだ。私は必死に枝を動かし、お前に樹液と水を与え日差しを塞ぎ、動物から守った。お前をいつか人の世に戻さねばとおもった。しかし」
「……私が嫌がったのです。先生」
　女は私の体に涙を落とす。かつて私が彼女の体に朝露を落としてやったように。
「先生と離れるのはいやだと」
　日差しを浴びてなお白い膚は、森の中でも美しく輝く。
　私はその手に、そうっと葉を一枚散らした。
　もう、根元は耐えきれないほどに腐っている。
「離れなさい。もうまもなく私は倒れる」
「いやです」
「だめだ……お前には役割がある」
　共に死のうというのか、女は私の体から手を離さない。私は葉を落として彼女を引き離す。
「役割？」
「私は死ぬが、私の根元にちいさな芽が……私の体は次の私のために、大地に溶けて栄養となり」
　揺れる。揺れる。私の体が揺れる。
「次の私を育てる」
　彼女が数歩退く。私は柔らかくなった土をみる。
　湿気った土の中から小さく顔を出す緑のものがみえた。
　それこそが私の子だ。頼りないほどに小さく幼く、儚い。しかし、命だ。
「今度はお前が私を育てておくれ」
　囁いて私は静かに背後へと倒れ込む。最期に見えたのは透き通るような初夏の青空。そしてそこに立つ、美しい金の髪の少女。　
　枯れ果てた身を大地に沈めて、私は思う。
　なんと素晴らしき一生であったかと。

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