波紋
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。待ち受ける現実を、受け止める器量などないのだけれど、生涯自分を苦しめ、悔恨の痛みを伴うあの情景に身を投じたのだ。
夏の北海道。長万部を経て噴火湾沿いを走る。日差しに煌めく海が美しく寄せる浜風が爽快だ。ロー
ドサイドに弧を描いてのびる砂浜には、釣り人が沢山の投げ竿を連ねている。
愛車はランドナーと呼ばれる自転車で、ハンドルとフロントタイヤ脇に付けられた大きなバックには、たっぷりのキャンプ用具が詰めてある。昨晩は長万部のバスターミナルに野宿した。今日は登別まで走る予定だ。
函館を下へ置く渡島半島は、噴火湾に大きく抉られている。僕は海岸線に沿って円を描き走った。登別は室蘭を通り越した先にある。
途中、休憩を入れ過ぎたのか、登別温泉の麓に辿り着いた頃、陽は大きく傾いていた。
登別温泉は山中にある。硫黄や蒸気を吹き出す地獄谷が有名で、ヒグマを集めたクマ牧場もあり、道南の観光拠点だ。
ハンドルを引き寄せ、ワインディングの坂道を登った。呼吸を整え、20段変速をローに落としてゆっくりと走る。もし、ジョギングしている人がいたのなら楽々と越されていただろう。それだけ、ゆっくりゆっくりとペダルをこいだ。
温泉街の灯りが見えた時、全身汗だくになっていた。路肩に自転車を止めてユースの位置を確認した。
―― 風呂に入れる!
それだけを楽しみに、ペダルをこぎだした。
ユースはセルフサービスだ。食後の食器は自分で洗う。細長いステンレスのシンクを備えた洗い場に立つと、隣に女の子がやって来た。他は皆グループで洗っている最中も賑やかだけれど、彼女は静かに洗っている。僕自身、それと同じなわけで、僕らの一角だけが場違いに静かだった。二人は無心に洗っていて、お互いの顔をしっかりとは見なかった。
『こんばんは』
『お疲れ様です』
この程度の言葉しか交わさなかったと思う。
ひとっ風呂浴びて、回していたランドリーに戻ると、乾燥機は未だ虚ろに回っていた。ぐるぐる回るそれを眺めていると、女の子がひとり入って来た。
「こんばんは」
その声は、洗い場で一緒になった人だと思った。彼女の衣類も未だ乾いていない様だ。彼女は、少しためらいがちに僕の隣へ座った。
二人きりの沈黙。乾燥機の音がその沈黙を埋めた。僕らは回転する衣類を見上げていた。
「あの…… ひとりで来てるんですか?」
声を掛けてきたのは彼女だ。
「はい。そちらも?」
彼女は頷いた。
「どこから来てるの?」
「わたしは、函館から」
「僕は、青森から。自転車で来たんだ」
自転車と聞いて彼女は驚いた。そして、更に彼女を驚かせたのは、僕が高校生な事だ。
「高三って信じられない! 社会人だと思ってた」
日焼けした上に、無精ひげを生やしていたから年上に見えたらしい。
「えっと。じゃ…… そちらは?」
「あ…… 遙って名前です。私は短大の一年よ」
「僕は、浩二です」自己紹介をしてその後、話は盛り上がった。
プスン! と、間の抜けた音を立て、ランドリーが止まった。タイムリミットのあるコミュニケーションは、いよいよ終幕だ。旅の出会い。それは、在り来たりな会話で終わるはずだった。だけれど、それは彼女の一言で変わった。
「明日。一緒にまわりませんか?」
「え! 僕とですか?」
明日、予定では札幌へ向けて走る予定だ。札幌へは、かなりの距離だけど平野なのでスピードを出せると計算していた。女の子と散歩でもしていたら、厳しくなるかも知れない。だけど僕は了承した。ショートカットで小柄な遙さんは、僕のタイプそのままだったからだ。
約束の時間。再会した遙さんは、デニムにスニーカー、そしてTシャツのラフな格好だった。けれど、メイクした彼女は昨晩にも増してきれいだ。彼女は、前日に地獄谷を見終えていた。どうしようかと、観光マップを覗き込む。
「それじゃ、クマ牧場にでも行く?」
「そうね…… 私は、湖が見たいな」
地図に載っているクッタラ湖は、透明度日本一と書かれていた。地図の縮尺からすると、儚く小さな湖だ。
坂道を進むと、間もなく舗装路は途絶えて砂利道になった。蛇行の連続で、どれだけ進んでいるのか実感が湧かない。
「暑くなってきたね」
頷いた遙さんは、ミニタオルで汗を拭いた。時折、ガラガラと音をたてて車が通り過ぎる。ドライバーは皆涼しい顔でこちらを眺めた。暑い中、山奥の砂利道を歩いているんだ。当然、好奇の目で見るだろう。
峠だろうか。高みにでると木々の切れ間から湖が見えた。見下ろしたその湖は、深い森に囲まれて、濃く蒼く沈んでいる。
「わー! きれい!」
遙さんが嬌声をあげた。はしゃぐ笑顔は子供みたいだ。
そこからは、一転下り坂だった。どうにか、湖畔に着いたものの一時間以上歩いていた事になる。
訪れる人が少ないのか湖畔は無人だ。桟橋にボートが何艘かつながれて、寂しく揺れている。
「ボートに乗ってみようか? 漕ぐのは上手じゃないけど」
遙さんは頷いてくれた。
店の主人が押し出したボートは、ゆっくりと湖面に滑り出した。彼女は片手を水面に浸し、水を切るのを楽しんでいる。
「凄い見て! 底まで見える!」
オールを止めてのぞき込んだ。湖底の砂粒が見えるほど透き通っている。
「悲しいわね。この湖……」
「悲しい?」
湖面が走った。そんな風に見えた。
湖面に映る雲が駆け足で走っている。僕は空を見上げた。
空は速い風が吹いているのだろう。
遙さんに目を戻すと、微かな風に髪が揺れていた。きれいだと思った。
「もう少し、早く漕いでみようか?」
「このままでいいよ」
殆どボートを漕いだ経験はなかったけれど、調子に乗ってオールに力を込めた。
「冷たい!」
不器用に返したオールは水飛沫をあげた。
「あ! ごめん!」
水飛沫は止まらない。
「もう! 冷たいからやめて!」
僕らは笑った。素直にゆっくりとボートを進め桟橋へと戻った。北海道の森の中、夏の日差しに煌めく水飛沫と、どこまでも透明な湖は一生の想い出になった。
戻り道は流石に疲れた。彼女は暑さでへたり、途中何度かおんぶをした。少しずつ、登別に近づく事は、別れが迫っている事を意味する。そんな寂しさを、遙さんも感じていてくれるのだろうかと彼女を背に乗せて思った。
遙さんは、登別駅から電車で函館に戻るそうだ。
「写真送るね」
彼女は、首に掛けたコンパクトカメラを両手で持って見せた。
「ありがとう。僕が撮ったのも送るよ」
僕らは住所を交換し合った。
北海道から帰宅すると、遙さんからの手紙が届いていた。
ユースの前で、ピースサインをする僕。
湖へ向かう道で、へとへと顔の遙さん。
湖畔のテラスでストローを口にして、ふざける僕。
ボートで寄り添ったツーショット。
そのツーショットを選んで、机の本立ての前に立て掛けた。
僕が撮影した写真を添えて、お礼の手紙を返した。そんな感じで、ぼくらは何度か文通を交わした。
翌年、父の転勤で青森の社宅から盛岡へと引っ越した。それと同時期に、僕は進学先の東京で独り暮らしを始めた。荷ほどきしたダンボールには、遙さんからの手紙はない。盛岡行きの箱に入れてしまったのだろうか。送り先が分からなくなり、僕らの文通は途絶えてしまった。
上京の際、携帯電話を持たされた。もしあの時、携帯を持っていたら連絡を取れたかも知れない。
東京は刺激的だ。大学は楽しいし友達も出来た。高校と比べると、バイトで忙しい日もあるが、自由に使える時間が大幅に増えた。
そんな事もあり、インターネットで、小説投稿サイトがあるのを知って執筆を始めた。サイトには、読み切れないほどの作品が溢れている。実際、どの作者の名前も知らないから、適当にタイトルや見出しでつまみ読みをしてみる。すると、気になる見出しが目に入った。
『どこまでも透明な水の上、大切な人を見つけた』
それは、旅先で知り合った二人が、ひょんな事から一緒に湖を目指して歩き始める物語だ。動悸が激しくなり、先を探る様に読み進める。湖へ至る山道は蛇行を繰り返す急な坂道で、湖を見降ろせる高台に出ると、その小さな湖は青く沈んでいた。
二人は湖に辿り着くと、ボートで遊ぶ。湖水はどこまでも透明で、湖底の砂までしっかりと見えた。彼がボートを漕ぐと、その水飛沫が跳ねて……
―― おい! ちょっと待ってくれよ。これって……
遙が小説を書いているなんて聞いた事がない。だけれど、こんな偶然なんてあるだろうか。北海道や登別。そしてクッタラ湖の名称は書かれてはいない。
物語は進んだ。帰郷した二人は文通を始めた。だけれど、ある日を境に彼との連絡は途絶えてしまった。あれは、ひと夏の残酷な幻だったのかとヒロインは嘆く。
これは、僕が抱いている感情と同じだ。サイトには、作品の感想を書き込む機能がある。淡い期待を込めてコメントを入力する事にした。
『もしかして、北海道のクッタラ湖ではないですか? もしそうなら、僕もそこへ行った事があります』
パソコンを落とすまで、返信はなかった。そして、翌日も来ない。もともと、メッセージに返信の義務はないのだ。
その明くる日。パソコンを起動すると、メッセージ有りのアラートが付いていた。
『そうです。偶然ですね。北海道のクッタラ湖が舞台でした』
メッセージは、それだけだった。ペンネームは、YUKI。遙とは全く違う。だけれど、函館の人だから雪を文字っても不思議はない。しつこいと思われるかも知れないけど、もう一度メ